申請主義に反対する意見は、福祉の本質を理解しているか
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
申請主義に反対する意見は少なからずある。
これまでの議論からも明らかであるが、申請主義に反対する意見は、極めて自然なことと思う。
この点について、私は、以下のように述べている。
福祉なんて、メニューのない食堂と同じだ。
そんなことを言っていた人もいた。
言っていることは分かる。
そして、これを一般市民が言うのは分かる。
支援者や支援団体が言うのも分かる。
本人や家族、あるいは親族が言うのも分かる。
行政はどんなに苦しい時でも、手を差し伸べてくれない。
問い合わせても教えてくれない。
窓口に行っても申請すらさせてくれない。
これらが、すべて申請主義がもたらした災いなのだとしたら、申請主義に反対する声が上がっても、何ら不思議ではない。
むしろ、極めて自然な感情だ。
これに対して、私は、次のように述べさせていただいた。
でも、これをソーシャルワーカーが言っちゃだめじゃないか?
少なくとも、社会福祉士は言っちゃだめじゃないか?
この理由は明快である。
福祉の本質は、個人の尊厳である。
そして、個人の尊厳は自己決定である。
申請主義は自己決定そのものだ。
したがって、申請主義の否定、あるいは批判は、自己決定を否定すること、あるいは批判することだ。
すなわち、福祉の本質である、個人の尊厳を否定すること、あるいは批判することだからである。
この点について、私は次のように述べている。
ソーシャルワーカーが申請主義を否定する、あるいは批判することは、例えば、弁護士が法治主義を否定すること、あるいは批判することに似ているように感じるからだ。
福祉に関わる人間は、個人の尊厳を守る最後の砦だ。
ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士が、申請主義を否定したり、批判することは許されない。
福祉の本質を理解しているからこそ、我々、福祉に関わる人間は、申請主義と、すなわち個人の尊厳と正面から向き合っているのだ。
申請主義の否定や批判に逃げてはだめだ。
#2 申請主義を考えるヒント 1 〜行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか? その2〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
前回の振り返り
まずは、前回(その1)の議論を簡単に振り返りたい。
昨今の申請主義に関する議論の中で、行政に対する批判は多い。
例えば、次のようなものだ。
行政は待っているだけ。
聞いても教えてくれない。
水際作戦と称して申請させてもくれない。
これに対して、前回、次のように述べさせていただいた。
現在の申請主義に関する議論の多くが、こうした行政批判に終始していて、本質的な原因追求を行なっていない。
では、「本質的な原因追求」とは何か。
その一つは、行政の「ビヘイビア」すなわち彼らの「習性」を徹底的に追及することである。
理由は明快だ。
なぜ、申請主義に課題が生じるのか。
それは、ひとえに、解釈・運用上の問題だからである。
そして、なぜ行政が、そのような解釈・運用を行うのか、そこが重要だからである。
では、行政のビヘイビア、特性とは何か?
それを紐解いていくことが、本稿の目的である。
今回は、この問題解決の一発目として、「本当に行政は待っているだけなのか?」について検討していきたい。
行政に周知したいという動機はあるか?
さて、本当に行政は待っているだけなのだろうか?
まず、行政に「周知したい」という動機づけがあるか考えてみたい。
この答えは簡単である。
答えは「ある」である。
(「ない」ではないのか?と思った方もいるかもしれないが、答えは「ある」である。)
理由は明快である。
まず、彼ら(行政)が、慣例的に行なっている周知方法があることを思い出したい。
それは、広報、ホームページ、住民向けのしおりである。
どの役所でも、この3点セットについては必ずやっていると思う。
では、なぜこの3点はやっているのだろうか。
行政はアリバイ工作の動機がある
行政は、あえて言えば、アリバイ工作的に仕事をすることが多いように思う。
すなわち、義務を果たすことが重要なのだ。
広報やホームページ、住民のしおりに載せておけば、とりあえず義務を果たしたということになるのだろうか。
逆に、慣例的にやっていることをやらないのは、義務違反として大問題になるのかもしれない。
先の質問に戻れば、彼ら(行政)に、周知の動機づけがあるかといえば、イエスということになる。
まずは、この事実を認めよう。
(リーチしていなければ、やっていないのと同じだ、という論者もいるかもしれないが、それは議論が飛躍している。)
彼ら(行政)がやりたいかどうかは別として、ネガティブな意味ではあるが、周知をせざるを得ないのが、行政のビヘイビア(特性)ということになる。
広報がリーチしていないと考えるのは間違い
さて、この程度で(義務的に周知をしている程度で)、我々が満足できるかといえば、答えはもちろんノーである。
しかし、だからといって、広報等そのものを否定すべきかということについては疑問がある。
まず、広報やホームページ、住民のしおりが、利用者にリーチしているのかどうかを考えてみたい。
(「リーチしていないに決まっている」という論者がいるかもしれないが、以下に述べるように、その主張は間違っている。)
広報は高齢者にとって重要な情報ツール
例えば、広報である。
広報など意味がないと思っている論者もいるが、それは間違っている。
意味がないのは、特定の年代、利用者のことである。
それを全ての年代・利用者の問題のように論じているのが誤りなのだ。
世代別で言えば、年例の高い人ほど広報をよく見ている。
比較的若い世代では広報など見ない人は多いのかもしれないが、広報を全く否定するのは誤りである。
では、広報に改善余地はないのだろうか?
もちろん、改善余地はある。
これは、物理的なものと、コンテンツ的なものの両面から考える必要があると思う。
広報は全戸配布されているか〜物理的な改善余地〜
まず物理的な改善余地である。
広報には、読む読まない以前の大きな問題がある。
それは、新聞の折り込みで配布するという手法だ。
これも世代によって傾向が異なるかもしれないが、トレンドでいえば、新聞購読者が減っている中で、折り込みで配布するという手法には問題がありすぎる。
これは、情報がリーチする以前の問題だ。
役所によっては、駅や公共施設で配布するということをやっているかもしれないが、どれほどの人が手に取っているのだろう。
自治体によっては全戸配布など工夫をしているのかもしれないが、費用の面などから、申し出のあった人(世帯)のみポスティングするという自治体も多いだろう。
広報をいかに住民にリーチするのかという点は、福祉以前の問題として改善されなければならない。
全戸配布のための予算を確保すべき
色々な考え方があるだろうが、まず、広報の全戸配布のための予算をしっかり確保すること。
もし、難しいということであっても、住民の権利行使に関わる内容は、特別号を作ってでも全戸配布にする、などの手法を検討すべきだ。
これが、物理的な面での改善余地の例である。
読みたいと思わせる内容か〜コンテンツ面での改善〜
そして、コンテンツ的な面での課題である。
広報を読みたいと思う人の割合は年々減少しているように思う。
端的に言えば、読みたいと思わせられていないと思う。
自治体によっては、さまざまな工夫をしている。
中には雑誌のような美しさを追求している自治体もあるが、ポイントはそこではない。
ポイントは読みたいと思わせるかどうかだ。
情報の量、構成、分類の仕方を工夫する
まず、情報量が多すぎる。
全てを読み込んでほしいのであれば、1回の紙面は、数ページでおさめるべきだ。
さらに、紙面の構成も分かりにくい。
多くの誌面は、クラシファイド広告のように細かく分割されている。
これでは、隅々まで目を皿にして読まなければ、何が書いてあるか分からない。
さらに、分類の仕方が、いかにも役所風だ。
つまり、多くの自治体の広報は、分野別記事になっているということだ。
例えば、福祉、文化、子育て、教育という分類だ。
こうした記事の配置は、行政の組織に沿ったものであって、彼らにとっては編集しやすいのかもしれないが、市民にとっては、情報を探しにくくしているだけである。
情報を見つけやすくする工夫が必要
情報を紙面で見つけやすくする工夫が必要だ。
例えば、所得の低い人向け、ひとり親世代向け、高齢者向けなど、読者の目線で記事を編集すべきだ。
例えばだが、「申請を忘れていませんか?」とか「ひとり親の方へ」など、「自分に向けられた記事だ」と分かるような見出しになっていれば、そこだけに目を向ければ良いわけだ。
広報は広告のように訴求するかを考えるべき
広報の記事は、ホームページと違って、どれだけ読まれているかカウントを取ることが難しいかもしれない。
このため、効果検証を行なっている自治体は少ないだろうが、いかに読者に訴求しているかにこだわるべきだ。
つまり、例えて言うならば、一つ一つの記事を、車内吊り広告のように、読者の視点で考えるべきだ。
行政が変わる可能性があるか
さて、では、今後行政が広報の配布方法や記事の編集方法を変える可能性はあるのだろうか。
おそらく、外圧がなければ、変わる可能性は少ないだろう。
今のままで「周知」という義務を果たしている以上、改善の動機は少ないと考えるべきだろう。
むしろ、「周知の義務」を果たそうと、とにかく情報だけ載せてくるということも考えられる。
そうなると、記事の数ばかり増えて、ページがさらに増えて、今よりも見づらくなる可能性もある。
私たちの行動が変わる可能性はあるか
一方で私たちの行動は変わるだろうか。
広報が見づらくなっていくにつれて、ますます私たちも広報を見なくなり、関心が薄れていく。
あえて言えば、広報などどうでもよくなる。
こうなったら、もう改善余地はなくなってしまう。
行政に対する無関心が高じた例
ある論者が、行政は待っているだけ、と言いながら、自身は役所から通知が来ても中身を見ないでゴミ箱に捨てているなどと述べていたが、これは、行政に対する無関心が高じた典型例だろう。
こうした輩は、広報だろうが、ホームページだろうが、SNSだろうが、プッシュ型情報配信だろうが意味がない。
全て無視するからだ。
これでは申請主義を否定したくなるのも分かる。
もう面倒くさいのだ。
面倒くさいと思う人がいることがスタートライン
繰り返しになるが、申請主義は権利そのものであり、申請主義の否定は権利を否定することだ。
私たち福祉に関わる者がやるべきことは、いかにして国民が適切に権利行使できるようにするかを考えることだ。
そう考えると、前述した論者はまさに反面教師ということになろう。
つまり、ここがスタートラインなのだ。
行政はただ義務を果たそうとするだけ
周知を義務的に行う行政は、自己改善能力は低い。
一方で、私たちは行政に対して無関心で、自らの権利行使すら否定しようとしている。
行政にとっては、プッシュ型配信の仕組みで義務が果たされるなら、喜んでやるだろう。
彼らのビヘイビアはまさにそこにあるからだ。
ポイントは、行政がいかにユーザー目線を持つかにかかっている
問題は、行政がいかにユーザー目線(利用者目線)で情報を発信するようになるかである。
行政の記事は、まさにマーケティングと同じと心得るべきである。
つまり、
- 認知させ
- 関心を持たせる
- 関わりを作り
- 参加させる
こうした一連のプロセスを行政に組み込むのだ。
行政にユーザー目線を持たせるためには
そのためにどうしたら良いか。
行政にはユーザー目線がないことを前提にすべきだ。
つまり、見えていないし、見ようとしていないのである。
したがって、行政の目となり、耳となる者が必要だ。
つまり、我々福祉に関わる者、当事者、そして一般市民、議員が、行政の広報に対して、高い関心を向けなければ、行政が変わることはない。
抽象的な要望では意味がない
そして、もう一つ大事なことがある。
行政を動かすには、行政の行動に直結するように働きかけることが必要だ。
残念ながら、抽象的な要望書の類を出しているだけではだめなのだ。
繰り返し述べているように、分析的に、どこをどうすべきなのか、行政に実現可能な提案をするようにしなければ、要望書も単なる当事者の自己満足で終わってしまう。
この辺りの議論については、大変重要なことなので、また別の機会に述べたいと思う。
次回は、「行政は、本当に聞いても教えてくれないのか?」について、述べたいと思う。
DaiGoの発言は、我が国に対する宣戦布告である
DaiGoが、生活保護受給者やホームレスの命はどうでもいいなどと発言したことに関して、一言述べたい。
すでにさまざまな人が批判している通り、私も、このような発言は決して許されないと思うし、差別発言、不適切発言というよりも、もっと悪質な、あえて言えば、優生思想に直結するような、極めて危険な思想の煽動を行なったものとして、全国民を震撼させる、いわばテロの予告のような極めて重大な犯罪に準ずる行為であると感じた。
したがって、本人が反省しているかどうかということも大変重要なことではあるが、むしろ、国が、あるいは国民が、このことに対して、どう毅然とした態度で立ち向かうかということの方が重要なのではないかと思う。
この点、支援4団体の共同声明の中で、菅総理に対して、本発言が許されないこと、生活保護は国民の権利であることを全国民に伝えることを求めているが、これは、あながち的外れではないと考える。
まさに、我が国のリーダーが、国家の安寧を脅かす重大事態と認識して、国民に対して、この発言が許されないこと、そして、我が国の福祉の理念を改めて認識させられるかという、まさしく政治マターの問題になっているからだ。
また、声明にもあった、スポンサー企業等の対応にも注目する必要がある。
毅然とした態度を社会全体で共同して取っていく上で、企業の影響力は大きい。こと、スポンサー企業であればなおさらである。
企業が我が国の一員として社会的責任を果たす意味からも、明確に、こうした、国民生活を脅かす発言をすることに対して、毅然とした態度を取ることが求められている。
そして、最も重要なのは私たち自身の態度だ。
特に、200万人以上とも言われているフォロワーがこの発言をどう受け止めるのかが、極めて重要だ。
本人が反省しているからとか、普段から過激な発言をしている人だからとか、本当に人を殺したわけではないとか、これまでの社会への貢献が大きいとか、さまざまな擁護論が出ていると思う。
これをもって全てを否定すべきではないと言いたい気持ちもあるだろう。
しかし、少なくとも、一旦は、この我が国を恐怖に陥れた発言をしたことに対して、何かしらの行動をとる、ということが求められているのではないか。
本人の謝罪よりも何よりも重要なことは、この発言に対する社会の態度だ。
社会が一致団結して毅然とした態度を取らなければ、これからも、第2第3のDaiGoが登場する可能性があるし、ほとぼりが冷めれば本人だって同様の発言をするかもしれない。
そして、何よりも恐ろしいのは、この発言に扇動された事件が本当に起こってしまうかもしれないことだ。
これこそが、我が国が避けなければならない、最悪のシナリオだ。
私たち、そして社会が、今、本気でこの発言に対して怒らなければならない。
私たちこそが試されているのだ。
そして、本人については、謝って済むことではないことは、言うまでもない。
これは、家で独り言を言ったわけではない。友人とTwitterで交わした呟きでもない。
公然と社会を恐怖に陥し入れる発言をしたのだ。
これが今犯罪にならないとしても、本人がすべきことは、まさに更正というべきであろう。
何が自分にそのような非道なことを言わせてしまったのか、とことん自分と向き合うことである。
ホームレスや支援者などから話を聞くなどとあったが、それは本質的な解決策にはならない。
少なくとも、今やるべきことではない。
やるべきことは、自分自身の更正であり、自分と向き合い、なぜあんな非道なことが言えたのか、言ったのかをとことんまで突き詰めることだ。
それができて初めて、ホームレスや支援者と話をすることができるレベルに達するのであって、今は彼らと話をする資格もないし、そのレベルに達していないと自覚するべきだ。
この問題は、我が国へのいわば宣戦布告として、全国民の問題と考えるべきレベルであることを指摘しておきたい。
#3 申請主義の課題を解決するための処方箋 その3〜本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることは許されない〜
本稿では、申請主義について極めて厳格な議論が必要になることをご説明したい。
本稿の始まり
本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まっている。
その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。
本人とその周辺環境は千差万別
前回(第2回)の終わりに、権利侵害(すなわち意思決定における支障)の態様を分類・整理する前提として、当事者や社会課題に応じて検討すべきであることを述べた。
福祉においては、本人とその周辺環境は千差万別である。
したがって、本人とその周辺環境に関わる以上、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士は、福祉を一律に捉えるのではなく、その個別性に着目すべきであると申し上げた。
本稿では、権利侵害の態様を分類する上で、私が重要な要因と考えている「帰責性」について考えていきたい。
(帰責性という用語は、法的責任主体としての帰責性ではなく、福祉の介入の対象とすべかかどうかという視点で用いている。詳しくは後述する。)
申請主義という言葉の定義を考える
具体的な検討に入る前に、まず、申請主義という言葉の定義について、今一度考えたい。
なぜなら、議論とは、対面であっても書面(web上の議論を含む)であっても、「言葉」の世界である。
したがって、議論の前提として、言葉の持つ「曖昧さ」をできる限り排除することが重要だと思うからである。
さて、「申請主義」の定義については、別記事に書かせていただいた。
以下、結論部分だけ抜粋させていただく。
「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」という意味である。
すなわち、我が国においては、福祉を利用しようと思ったら、申請意思を示せば良いということになる。
これが原則であるということを、まずご承知いただきたい。
(え?実際と違うと思った方もいるかもしれないが、ここでは「定義」を問題にしており、運用・解釈の問題とは異なることをご承知いただきたい。)
申請主義の例外は急迫した状況の場合
原則というからには、例外がある。
すなわち、本人の申請意思に任せることができない場合である。
生活保護を例にあげれば、急迫した状況の場合は職権による保護ができることなっている。
すなわち、そのまま放置すると生命に危険が生じる恐れのある状態と認められれば、本人の申請意思によらず、行政が保護を開始する場合があるということだ。
本稿の議論の目的
本稿の議論の目的は、
1)ここでいう急迫した状況にはないが、
2)本人が申請意思を示すことが期待できない場合
を極めて慎重に整理することにある。
なぜか。
福祉の本質は個人の尊厳である。
そして、個人の尊厳の本質は自己決定である。
したがって、本人の申請意思に関する議論は、自己決定に関する議論であり、個人の尊厳に関する議論であることから、極めて慎重に行われなければならない。
これが、申請意思を示すことができない場合を極めて慎重に整理しなければならない理由である。
申請主義を厳格な検討なく軽々しく否定批判することは間違い
この点、申請主義を厳格に検討することなく、表層的な問題だけを捉えて、軽々しく、申請主義を否定、あるいは批判する論者がいる。
こうした論者は、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士としては、完全に間違った考えであることを指摘しておきたい。
帰責性の意味
さて、ここからが本題である。
「帰責性」と述べたが、ここでいう帰責性とは、前述したとおり、法的責任に関するものではない。
すなわち、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうか、という意味で用いている。
帰責性を論じる前提としての分析的視点
本稿では、帰責性について述べる前提として、まず、申請主義における、分析的視点についてご説明したい。
なぜなら、前述したように、申請意思に関する議論は極めて慎重に行う必要があるからだ。
この点、なぜ慎重に行う必要があるのか理解できないという人もいるかもしれない。
そこで、以下、具体的に説明させていただく。
看過できない議論
さて、申請主義の議論において、看過できない議論がある、
それは、声を上げることができない人に関するものである。
具体的にはこうだ。
声を上げることのできない人がいる。
助けてと言えない人がいる。
だから助けてあげなければならない。
手を差し伸べてあげなければならない。
これを読んでどう感じるだろうか。
一般論として、これを否定する人はいないだろう。
しかし、福祉の視点としては、これは間違っている。
重大な視点が欠落しているのだ。
重要な視点は本人の能力と周辺環境
それは、本人の能力と周辺環境である。
福祉に関わる者であれば、これらを捨象して、本人を助ける、手を差し伸べるなどと決して言ってはいけない。
それは、あなたの単なるエゴだ。自己満足だ。押し付けだ。
そう言われても仕方のないようなレベルだ。
これは、福祉の本質が自己決定であることを無視しているからだ。
知るべき情報のレベル
こうした論者が知るべきことは、以下のようなものだったはずた。
すなわち、
- 本人は、情報にアクセスすることができなかったのか、
- 情報にアクセスできても、理解できなかったのか、
- 理解できたとしても、書き方が分からなかったのか、
- 書き方が分かったとしても、書けなかったのか、
- 書けたとしても、提出できなかったのか、
- 提出できたとしても、必要な書類が添付できなかったのか、
- 決定があったとしても、請求ができなかったのか(決定後に請求が必要な場合もある)、
細かすぎると思うだろうか?
そう思うなら、あなたは間違っている。
と言われても仕方がないかもしれない。
申請主義の議論は極めて分析的な検討が必要
申請主義を議論するためには、こうしたことを極めて分析的に検討することが必要だ。
なぜか?
申請主義は、本人の権利行使そのものである。
私たちが関わろうとしていることは、本人の権利に関することだ。
したがって、可哀想だからと勝手に決めつけて、手を差し伸べることは、本人の権利の侵害になる。
このことを、まず理解すべきだ。
先ほどの一般的には肯定されるだろうと述べたのはこのためだ。
福祉に関わる以上、本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることが許されないことは理解できるはずだ。
それが許されるのは、急迫した状況が差し迫っている時だけだ。
本人の権利行使がどこで阻害されているかを知る
だからこそ、我々福祉に関わる者は、本人の権利行使がどこで阻害されているのかを分析的に検討しなければならないのだ。
先ほどの例であれば、本人は、情報アクセスに課題があるのかもしれない。
前回の記事の例で述べた、ひとり親の事例がそうだ。
本人にいくら能力があっても、そもそも情報にアクセスすることができないのであれば、福祉にたどり着くことがまだできない。
申請主義の課題として挙げられる、情報の周知やアクセスの問題は、こうした分析的な検討によって初めて明らかになることだ。
分析的な視点への批判がそもそも間違い
こんなことは分析的な検討などしなくても明らかだという論者もいるかもしれない。
しかし、その姿勢そのものが間違っている。
繰り返しになるが、申請主義は本人の権利そのものだ。
そこに手を差し伸べようとすることは、極めて限定的であるべきだ。
詭弁だ、と言う人がいるかもしれない。
困っている人を見捨てるのか、と言う人がいるかもしれない。
しかし、これは詭弁でもないし、見捨てようなどとはこれっぽっちも思っていない。
そして、これを一般の方が言うのであれば、私も理解できる。
しかし、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士がそれを言うことは、私は許さない。
次回は帰責性の本質を論じる
以上、本項では、申請主義の課題を検討する上で重要な帰責性を議論する前提となる、分析的や視点についてご説明させていただいた。
次回はいよいよ、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうかを考える上で重要となる、帰責性の本質について検討したい。
#4 申請主義の課題を解決するための処方箋 その4〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その1〜 - さくらのソーシャルワーク日記
#1 申請主義を考えるヒント 1 〜行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか? その1〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
申請主義を考えるヒントの1回目として、行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか?ということについて考えていきたい。
これまでの議論は表層的
申請主義に否定的な論調の中で、行政ないしは役所に対する批判的な意見は多い。
例えば、
行政は待っているだけ
聞いても教えてくれない
水際作戦と称して申請させてもくれない
といった内容だ。
なるほどと思える面もあるが、残念ながら、これらは表層的な問題の指摘にしか過ぎないように思う。
もっと言えば、その論者が経験した範囲でしか論じていないのではないかと思う。
すなわち、一言で言えば「中途半端」なのだ。
これでは、問題の本質に辿りつかない。
本当に行政は待っているだけなのか?
ここで、質問したい。
本当に行政は待っているだけなのか?
本当に聞いても教えてくれないのか?
本当に申請させてくれないのか?
おそらく、ある人にとっては全てイエスだろう。
少なくとも、前述した論者にとっては、間違いなくイエスなのだろう。
しかし、全ての行政機関について、これが当てはまるのだろうか?
福祉に携わる全ての公務員について、これが当てはまるのだろうか?
正解は、「分からない」だろう。
全ての行政機関あるいは福祉に携わる公務員が皆同様だと言い切れるはずがないからだ。
したがって、前述したとおり、その論者が経験した範囲でしか論じていないと言われても仕方がないだろう。
極端な例を述べているように思うかもしれないが、これが現実である。
議論の前提として、まず事実と向き合うことが最低条件と思う。
行政の職員が不親切だと感じたことはないか?
しかし、福祉に携わるものであれば、ましてや行政との関わりを持ったことがある人であれば、「行政の職員は不親切だ」と感じたことが、一度くらいはないだろうか。
かくいう私も、行政の職員は不親切だ、と感じたことのある一人である。
だからといって、これをもって、「短絡的に」、行政は待っているだけだ、聞いても教えてくれない、申請させててもくれない、などと思ったことはない。
問題の本質はそこではない。
ここで問題なのは、「なぜ、行政の職員が不親切だと感じることがあるのか」ということである。
行政は申請主義を考える上で重要なプレイヤー
この点について、一度整理してみたい。
なぜなら、申請主義を考える上で、行政が重要なプレイヤーの一人であるからだ。
すなわち、行政の「ビヘイビア」、つまり彼らの「習慣」を検討することなく、申請主義を考えることはあり得ない。
現在の浅はかな議論
現在の申請主義に関する議論の多くが、前述したような行政批判に終始していて、本質的な原因追求を行なっていない。
こうした議論は実に浅はかだ。
例えば、こんな論調だ。
行政から送られてくる封書など誰も見ない。自分も開けたことがない。だからインターネットを使ったプッシュ型にしよう。
申請手続きが面倒だ。だからオンライン申請にしよう。
情報にリーチできない人がいる。だからアウトリーチしよう。
これらは、一見、問題解決をしているように見せてはいるが、本質的な問題を解決しようとしていない。
すなわち、極めて表層的な議論しかしていないのである。
行政のビヘイビア(習慣)を考える
では、本質的な議論とは何か。
その一つは、行政の「ビヘイビア」すなわち彼らの「習性」を徹底的に追及することだ。
なぜ、申請主義に課題が生じるのか。
それは、ひとえに、解釈・運用上の問題だ。
すなわち、なぜ行政が、そのような解釈・運用を行うのか、そこが重要だ。
行政の思考回路を紐解き、どこにボトルネックがあるのか。どこに解決の糸口があるのか、本質的な原因追求をしなければ、この問題が解決することはない。
論者にとって都合よく決めつけ、都合のよいストーリーを論じていては、問題の本質的な解決にたどり着くことは決してない。
論者が「自分の浅はかさ」を認めることは辛いことかもしれない。
しかし、この事実を認めることが、本質的な問題解決に不可欠であることを指摘しておきたい。
さて、行政はなぜ不親切なのか、あるいは不親切に感じるのか。
次回以降、先ほどの表面的な問題をさらに深掘りしていきたい。
次回は、この一発目として、「本当に行政は待っているだけなのか?」について検討していきたい。
#2 申請主義の課題を解決するための処方箋 その2 〜特定分野の議論のみで申請主義を否定してはいけない〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
本稿は、「申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だ」と述べたところから始まっている。
その意図するところは、前回の記事で述べたとおりである。
前回の終わりに、申請主義の課題は「自己決定における権利侵害である」と述べた。
本稿では、まず、自己決定における権利侵害のさまざまな態様を分類することの意義を述べるところからスタートしたい。
なぜ態様を分類することの意義を述べる必要があるのだろう?
理由は明快である。
権利侵害の態様を分類することが、申請主義の課題を改善していく前提として、最も重要な論点の一つと考えるからだ。
この理由も明快である。
前回述べたとおり、権利侵害とは、すなわち自己決定上生じる支障である。
そして、この態様はさまざまだからだ。
具体的に述べよう。
申請主義を否定、あるいは批判する議論の中には、我が国の福祉制度全般について語っているように見せながら、生活保護や生活困窮のみを念頭においたものがある。
しかし、これは明らかなミスリードだ。
いつまでもなく、福祉制度の対象は生活保護や生活困窮だけではない。
対象者をごく限定的に挙げれば、児童、低所得者、ホームレス、非行少年、犯罪者、外国人、犯罪被害者、高齢者、障害者、ひとり親、依存症患者など、数多くの福祉を必要としている人がいる。
そして、社会的な課題についてもごく限定的に挙げれば、虐待、DV、貧困、就労支援など、さまざまあり、これらが複合的に現れるケースも多い。
前述したとおり、申請主義を否定、あるいは批判する議論の中には、我が国の福祉制度全般について語っているように見せながら、生活保護や生活困窮のみを念頭においたものがある。
生活保護や生活困窮は一つの分かりやすい事例として挙げたということかもしれない。
しかし、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士であれば、看過できない問題が潜んでいる。
すなわち、福祉においては、本人とその環境はそれぞれ異なるという点である。
当事者や社会的課題が異なればなおさらである。
この点について、例を挙げながら説明したい。
福祉におけるエコシステムの中で、本人が周辺の環境と一切の接点なく生活しているということはまれであろう。
そして、その周辺環境はまさに千差万別である。
例えば、ひとり親で生活に困窮している場合だ。
本人(ひとり親)、子のほかに、ひとり親の両親、兄弟姉妹、就労先、子どものかかりつけ医、保育園、行政、買い物をしているスーパー、近隣住民などが考えられる。
しかし、ひとり親は、こうした周辺環境との関わりが疎遠である可能性も高く、その場合、社会での孤立を生む可能性もある。
それに加えて大きな問題もある。
日頃、仕事をしながら、一人で子育てをするという生活の中で、仮に生活が厳しくなってきたとしても、必要な情報を収集する時間もなく、頼れる人もなく、役所に相談に行きたくても平日働いているため、日中、相談の電話をかけることも、ましてや行くこともできない。
これでは、本人がいかに能力があってもどうしようもない。
このままでは、ひとり親という(あえて言えば)不運な状況の中で、不運な状況が本当に課題として顕在化してしまう可能性がある。
これは避けなければならない。
もう一つの例を挙げる。
高齢の親と暮らす知的障害者の例である。
本人と両親、そして兄弟姉妹、昔から本人をよく知っている近所の人、通所施設の施設長や職員、行政、障害者の友人、その両親など、多くの人がこれまでに関わってきた。
本人は自分で理解し判断することは難しい面もあるが、両親の強いサポートと周辺の人の助けによって生活をしていくことができている。
障害という不運な状況ではあったが、現在のところ何か課題として顕在化するという状況ではない。
この2つの事例だけ見ても、本人と周辺の環境によって、課題の状況は異なってくる。
申請主義をめぐる議論で、真っ先に違和感を感じることの一つは、本人やその周辺環境を捨象して、論者に都合の良い面だけを見せていることである。
したがって、申請主義について語る際には、少なくとも、当事者が誰なのか、どのような社会課題なのかを明らかにしなければ、議論が偏ったものになってしまうことに注意が必要である。
この点については、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士であれば、「当然」のことと考える。
仮に、生活困窮者支援に関わってる人が、その文脈の中で申請主義を否定、あるいは批判しているのであれば、文脈から理解できなくはないが、論者として、ましてや福祉に関わる者としては、その前提は明らかにすべきであろう。
こうして見てくると、福祉制度全般をとらまえて、申請主義を一律に否定、あるいは批判することに妥当性がないことは理解いただけると思う。
ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士としては、福祉制度全般を一律に捉えるのではなく、それぞれの当事者や社会課題に応じて、申請主義の課題を個別的に分析していくことが必要であることは言うまでもないことである。
その上で、申請主義の課題を類型化していくのである。
私は、申請主義について語ることまでを否定するものではない。
課題をいかに改善すべきか、大いに議論されるべきであろう。
しかし、議論の前提をまず整理しなければ、単なる論者にだけ見えている、表層的な問題の解決に議論が終始してしまう。
もちろん、ソーシャルワーカー、社会福祉士であっても、特定の福祉分野、あるいは社会課題分野で活動している人が多いだろう。
議論がその特定分野に限定されていても大いに結構だと思う。
しかし、その特定分野の議論を、さも我が国の福祉制度全般の問題のように述べる手法には違和感を感じるということを指摘しておきたい。
さて、今回は、権利侵害の態様を分類整理する前提として、当事者や社会課題に応じて検討すべきことを述べた。
次回は、分類整理していく上でのCKF(クリティカルキーファクター)となる、帰責性について検討していきたい。
#1 申請主義の課題を解決するための処方箋 その1 〜申請主義の課題は自己決定における権利侵害だ〜
前回、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べた。
この意図するところは、自己決定だ。
理由は明快である。
私は、ソーシャルワーカー、少なくとも社会福祉士は、本人の自己決定を尊重し、支援する立場だと信じているからだ。
そして自己決定こそが福祉だと信じているからだ。
申請という行為は本人の意思表示だ。
したがって、申請主義の課題は、すなわち自己決定の課題であり、イコール福祉の課題であると考える。
もし、何かしらの事情で申請ができないということがあれば、すなわち自己決定に支障が生じているということがあれば、それは即刻改善されなければならない。
これは申請主義を否定、あるいは批判するものではない。
申請主義によって生じている課題を指摘するものである。
改善されるべきは申請主義ではなく、申請主義によって生じている課題である。
これは繰り返し伝えたい。
なぜか?
福祉を否定することがあってはならないからだ。
そして、これは言葉の問題ではなく、ましてや感情的なものでもない。
論理から導き出される必然である。
さて、自己決定とは、福祉そのものであり、言うまでもなく、人としての正当な権利の行使だ。
したがって、自己決定に当たって生じる支障は、権利の侵害であると言える。
これを改善することこそが、社会福祉士としての役割であり、その延長線上にソーシャルアクションがあるだろう。
なお、ソーシャルアクションとソーシャルワーカー、さらには社会福祉士との関係者については、別の機会に述べたい。
次回は、自己決定における権利侵害のさまざまな態様をどう整理していくべきか考えたい。
#2 申請主義の課題を解決するための処方箋 その2 〜特定分野の議論のみで申請主義を否定してはいけない〜 - さくらのソーシャルワーク日記