さくらのソーシャルワーク日記

社会福祉士さくらが思ったこと感じたこと

小山田圭吾がしたことと、これからの健常者教育

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このいじめ問題で社会的に責任を取るべきなのは、小山田本人であることは間違いないが、私は、現存すると思われる、いじめの舞台となった学校にも大きな責任があると思う。


本来であれば、インクルーシブ教育の中で、健常者、障害者がお互いに多様性を認めて、豊かな人間性を育むべき環境づくりを目指していたのだろう。


インクルーシブ教育で勘違いしていけないのは、健常者にとっての情操教育、道徳教育のようなものであってはいけないということだ。


一方、障害者にとっても、普通の教育が受けられる環境が手に入ったことだけを喜ぶべきものでもないということだ。


あえて言う。

インクルーシブは、健常者の教育の場である。

つまり、健常者が障害者から教えてもらう。あるいは、仲間に入れてもらう場であると考える。

逆なのだ。

障害者が先生、障害者が上なのである。

 

なぜか。

多様性を育むということは、お互いの違いを尊重することである。

障害者はこれまでに嫌というほど健常者に合わせることを強制されてきた。

したがって、健常者の世界における価値判断などを今更教わる必要もない。

 

お互いの違いを知らないのは健常者の方であり、インクルーシブ教育においては、健常者が障害者に教えてもらうという姿勢が必要不可欠である。


それが難しいとか、できないというのは、考え方が間違っている。即刻やめた方が良い。


さて、障害者から様々生きていく上での健常者との違いを知ろうとするならば、そこには、尊敬の念が生じるはずである。


そうして作り上げられたクラスメイトとの関係において、いじめなどが発生する余地はない。


いじめは上下関係を強制するものである。

上下関係のないインクルーシブ教育においていじめがあるはすがないのだ。


にもかかわらず、いじめが起きていたのであるならば、そこはインクルーシブ教育の場ではなかったということである。

 

そして、障害者より健常者の方が偉いという幻想を抱いてしまうほど、障害者に対する敬意はみじんみなかったということである。


これは、どう考えても学校の責任だろう。


障害者が認められ、尊ばれ、社会に役に立ち、仲間意識が芽生える。

その中では、健常者や障害者の区別なく、お互いを敬う関係が作られる。


本当に目指していたのはこういうものではなかったのか?


これを機に、小山田はオリンピック開会式を辞職し、責任を明確にするべきである。

そして、問題になっている学校も、インクルーシブ教育は一旦あきらめて、できれば学校も解体して、新しいインクルーシブ教育を考える、あるいはもうやめてしまう。

これが一番潔く、また社会のためになるものと思う。


障害者をいじめるなど、この時代、過去のことであっても絶対に許されてはいけないという強い姿勢で臨むべきである。

小山田を辞退させなければ、いじめの容認、障害者差別の容認をすることになり、オリンピック・パラリンピックの精神に真っ向から反対しまう。

あえて言うが、森さんの女性蔑視発言以上に悪質としかいいようがないからだ。

 

ましてや、小山田は、過去の大罪に対して何らの制裁も受けていないのであるから、被害者だけでなく、障害者、その家族、関係者、支援者、その他障害者に関わる多くの人からの批判を嫌というほど受けることが、まず必要だ。

みんなが納得する今後の方向性を示して、初めて次のステップに歩き始めることができるのではないか?


彼にとっては、オリンピックに関わらなければ、過去を蒸し返されることもなく、一生忘れていられたことだったかもしれない。

本人は「くっそ、オリンピックなんて引き受けるんじゃなかったぜ」と思っているかもしれねい。

 

でも、ここで明らかになったことは、まったく無駄ということではない。

今から嫌というほど批判されていけば、この先の人生においては、人道派のミュージシャンに生まれ変わる可能性があると思うからだ。


あ、デザイン「あ」も降板するしかないだろうね。(これは、洒落でなくて)