申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜
本稿では、申請主義の定義について述べたい。
申請主義の正しい定義ってなんだろう?
- 言葉の定義を正しく認識することが重要
- 申請主義の定義〜申請主義とは〜
- 申請主義の意義
- 申請主義を曲解する事例
- 申請主義を誤用する事例
- 申請主義を曲解・誤用するあやうさ
- 論ずべきは申請主義そのものではない
- 申請主義の終焉などありえない
- 申請主義の課題を本気で解決したいなら申請主義の定義を歪めてはだめだ
言葉の定義を正しく認識することが重要
申請主義については、その弊害や課題がさまざまな形で議論されている。
申請主義は我が国の福祉の根幹である。ぜひ建設的な議論がなされるべきだ。
そして、言うまでもないことだが、申請主義について論じる前提として、申請主義という「言葉の定義」を正しく認識することが何より重要だ。
そうしないと、解決すべき本質的な課題が明確にならないからだ。
しかし、現在の申請主義に関する議論においては、申請主義を「曲解」あるいは「誤用」している事例が散見される。
これは、社会福祉士としては看過できない。
申請主義を正しく定義することこそが本質的な課題解決のためのスタートラインだと思うからだ。
この点については、後ほどご説明させていただく。
申請主義の定義〜申請主義とは〜
さて、申請主義の定義である。
端的に結論を述べよう。
まず、「申請」という言葉だが、これは、「行政機関に対して権利を行使するための意思表示」という程度の意味である。
つまり、生活保護であれば、生活保護を受けたいです、ということを伝えることが「申請」ということになる。
必要なのは単なる申請意思であって、書面などは求められていない点がポイントだ。
(言葉の定義と実際の運用は違うではないかというのは別の議論である。この点については別の機会に述べたい。)
では「申請主義」という言葉はどうか。
「主義」とは、そのような「原則や考え」という程度の意味である。
つまり、「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」という意味になる。
これが「申請主義」の定義である。
申請主義の意義
我が国においては、権利の主体は国民であり、決して、国や行政機関ではない。
したがって、頼んでもいないのに、特別な理由もなく、行政機関が来て、「あなたを生活保護の対象にします」と言って、資産調査を始めたりすることはない。
あるいは、「介護認定を受けてもらいます」と言って、突然自宅にやってきて、認定調査を始めるなんてことは絶対にありえない。
考えるまでもなく、これは至極当たり前のことである。
国や行政機関が、特別な理由もなく、国民生活に強権的に介入することは決してないのである。
つまり、申請主義とは、国民一人一人を国や行政機関から介入されることのない権利の主体として認め、国民が意思表示することによって権利を行使することができるようにする、という原則を現した言葉と言える。
福祉の本質は個人の尊厳である。そして、尊厳の本質は自己決定である。
したがって、申請主義はまさに福祉の本質と言える。
申請主義を曲解する事例
申請主義は、権利の行使に当たって意思表示が必要という原則であり、それ以上でもそれ以下でもない。
にもかかわらず、冒頭で述べたとおり、現在の申請主義に関する議論において、申請主義を「曲解」あるいは「誤用」している事例が散見される。
最たるものは、申請主義を「情報を探し、役所の窓口に自ら足を運び、申請する必要があることを指す言葉」と論じているものだ。
これは、「曲解」もいいところだ。
合っているのは、最後の「申請する必要があること」の部分だけである。
情報を探すのは制度の周知の問題、役所の窓口に足を運ぶのは対面主義の問題、いずれも申請主義の説明ではない。
申請主義を否定しよう批判しようという思いが、このような「曲解」を生み出すのだろうか。
申請主義を誤用する事例
一方で、申請主義の解決策と論じているものの中にも、申請主義の「誤用」が散見される。
例えば、「オンライン申請やプッシュ型の情報配信によって申請主義を乗り越える」などと述べられたものだ。
これは、ひどい「誤用」である。
オンライン申請は申請チャネルの多様化の問題、プッシュ型情報配信は制度の周知の問題だ。
いずれも申請主義の説明ではない。
ましてや、オンライン申請にしてもプッシュ型情報配信にしても、最終的に本人の意思表示が必要である。
これはまさに申請主義そのものだ。
申請主義を否定しよう批判しようとするあまり、解決策として論じているのが申請主義そのものであることにも気づいていないのかもしれない。
申請主義を曲解・誤用するあやうさ
世の中、申請主義を否定しよう批判しようとする議論は多い。
しかし、その多くが、申請主義を曲解、誤用している。
ひどいものは、申請主義の終焉、申請主義は終わるなどと謳っておきながら、職権主義まで求めるものではないと論じていたりする。
何を言っているのかと思う。
申請主義をことさら否定しよう批判しようとするあまり、申請主義を曲解、誤用してしまうのだろうか。
こうした論者の決定的な誤りは、申請主義の定義を履き違えていることだ。
もしかしたら、意図的に曲解、誤用をしているのかもしれない。
その方が、利用者本人の共感を得られやすいと思っているのかもしれない。
しかし、申請主義の抱える課題を本当に解決したいのであれば、やるべきことは、課題を正確に定義することだ。
脚色したい気持ちをぐっと抑えて、申請主義を正しく定義することだ。
そうすることで、解決すべき課題が明確になるからだ。
論ずべきは申請主義そのものではない
論じるべきは、申請主義そのものではない。
申請主義は自己決定であり、福祉そのものだ。
ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士が否定したり、批判することはあってはならない。
議論すべきなのは、申請主義の弊害、課題だ。
すなわち、解釈や運用、申請主義を実現するための具体的な手段だ。
具体的には、
・制度の周知方法の改善
・行政の説明能力の向上
・申請チャネル(書面等)や受付チャネル(窓口等)の多様化
・疎明資料(添付資料)の利用者負担の軽減
・行政の審査能力の向上
などを議論すべきだ。
申請主義の終焉などありえない
すなわち、否定すべきは、書面主義、対面主義、利用者疎明主義だ。
これをとらまえて、「書面主義の終焉」というのであれば、まだ分かる。
(個人的には、まだ書面のニーズはあると考えているが、この点ついては別の機会に述べたい。)
しかし、申請主義の終焉などありえない。
ポスト申請主義、申請主義からアウトリーチへなどと謳っているものも同様だ。
これらは、申請主義という言葉の定義を曲解あるいは誤用している。
申請主義は終わるなどと書くことがセンセーショナルで世間の注目を集めるとでも思うのだろうか。
だとしたら、社会福祉士としては許せない。
申請主義の課題を本気で解決したいなら申請主義の定義を歪めてはだめだ
繰り返しになるが、福祉は自己決定そのものだからである。
そして、申請主義は本人の意思表示そのものだからである。
私が言いたいことは、まずは正しくスタートラインにつくべきということだ。
申請主義に関する議論はぜひすべきだ。
課題が複雑化し、多様化している現代社会において、一人も取り残さない社会や福祉を実現する必要は極めて高い。
そのためには、現在の申請主義の課題、例えば、書面中心主義であったり、利用者疎明主義、制度の周知方法、行政の説明能力などは、即刻改善されるべきと思う。
しかし、そのことと、申請主義の定義を歪めてまで、世論の気を引こうとする姿勢は別だ。
それでは、本質的な課題が見えてこないからだ。
しつこいようだが、最後にもう一度繰り返させていただく。
「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」という意味である。
#1 申請主義の課題を解決するための処方箋 その1 〜申請主義の課題は自己決定における権利侵害だ〜 - さくらのソーシャルワーク日記