#1 申請主義を考えるヒント 1 〜行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか? その1〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
申請主義を考えるヒントの1回目として、行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか?ということについて考えていきたい。
これまでの議論は表層的
申請主義に否定的な論調の中で、行政ないしは役所に対する批判的な意見は多い。
例えば、
行政は待っているだけ
聞いても教えてくれない
水際作戦と称して申請させてもくれない
といった内容だ。
なるほどと思える面もあるが、残念ながら、これらは表層的な問題の指摘にしか過ぎないように思う。
もっと言えば、その論者が経験した範囲でしか論じていないのではないかと思う。
すなわち、一言で言えば「中途半端」なのだ。
これでは、問題の本質に辿りつかない。
本当に行政は待っているだけなのか?
ここで、質問したい。
本当に行政は待っているだけなのか?
本当に聞いても教えてくれないのか?
本当に申請させてくれないのか?
おそらく、ある人にとっては全てイエスだろう。
少なくとも、前述した論者にとっては、間違いなくイエスなのだろう。
しかし、全ての行政機関について、これが当てはまるのだろうか?
福祉に携わる全ての公務員について、これが当てはまるのだろうか?
正解は、「分からない」だろう。
全ての行政機関あるいは福祉に携わる公務員が皆同様だと言い切れるはずがないからだ。
したがって、前述したとおり、その論者が経験した範囲でしか論じていないと言われても仕方がないだろう。
極端な例を述べているように思うかもしれないが、これが現実である。
議論の前提として、まず事実と向き合うことが最低条件と思う。
行政の職員が不親切だと感じたことはないか?
しかし、福祉に携わるものであれば、ましてや行政との関わりを持ったことがある人であれば、「行政の職員は不親切だ」と感じたことが、一度くらいはないだろうか。
かくいう私も、行政の職員は不親切だ、と感じたことのある一人である。
だからといって、これをもって、「短絡的に」、行政は待っているだけだ、聞いても教えてくれない、申請させててもくれない、などと思ったことはない。
問題の本質はそこではない。
ここで問題なのは、「なぜ、行政の職員が不親切だと感じることがあるのか」ということである。
行政は申請主義を考える上で重要なプレイヤー
この点について、一度整理してみたい。
なぜなら、申請主義を考える上で、行政が重要なプレイヤーの一人であるからだ。
すなわち、行政の「ビヘイビア」、つまり彼らの「習慣」を検討することなく、申請主義を考えることはあり得ない。
現在の浅はかな議論
現在の申請主義に関する議論の多くが、前述したような行政批判に終始していて、本質的な原因追求を行なっていない。
こうした議論は実に浅はかだ。
例えば、こんな論調だ。
行政から送られてくる封書など誰も見ない。自分も開けたことがない。だからインターネットを使ったプッシュ型にしよう。
申請手続きが面倒だ。だからオンライン申請にしよう。
情報にリーチできない人がいる。だからアウトリーチしよう。
これらは、一見、問題解決をしているように見せてはいるが、本質的な問題を解決しようとしていない。
すなわち、極めて表層的な議論しかしていないのである。
行政のビヘイビア(習慣)を考える
では、本質的な議論とは何か。
その一つは、行政の「ビヘイビア」すなわち彼らの「習性」を徹底的に追及することだ。
なぜ、申請主義に課題が生じるのか。
それは、ひとえに、解釈・運用上の問題だ。
すなわち、なぜ行政が、そのような解釈・運用を行うのか、そこが重要だ。
行政の思考回路を紐解き、どこにボトルネックがあるのか。どこに解決の糸口があるのか、本質的な原因追求をしなければ、この問題が解決することはない。
論者にとって都合よく決めつけ、都合のよいストーリーを論じていては、問題の本質的な解決にたどり着くことは決してない。
論者が「自分の浅はかさ」を認めることは辛いことかもしれない。
しかし、この事実を認めることが、本質的な問題解決に不可欠であることを指摘しておきたい。
さて、行政はなぜ不親切なのか、あるいは不親切に感じるのか。
次回以降、先ほどの表面的な問題をさらに深掘りしていきたい。
次回は、この一発目として、「本当に行政は待っているだけなのか?」について検討していきたい。