#3 申請主義の課題を解決するための処方箋 その3〜本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることは許されない〜
本稿では、申請主義について極めて厳格な議論が必要になることをご説明したい。
本稿の始まり
本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まっている。
その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。
本人とその周辺環境は千差万別
前回(第2回)の終わりに、権利侵害(すなわち意思決定における支障)の態様を分類・整理する前提として、当事者や社会課題に応じて検討すべきであることを述べた。
福祉においては、本人とその周辺環境は千差万別である。
したがって、本人とその周辺環境に関わる以上、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士は、福祉を一律に捉えるのではなく、その個別性に着目すべきであると申し上げた。
本稿では、権利侵害の態様を分類する上で、私が重要な要因と考えている「帰責性」について考えていきたい。
(帰責性という用語は、法的責任主体としての帰責性ではなく、福祉の介入の対象とすべかかどうかという視点で用いている。詳しくは後述する。)
申請主義という言葉の定義を考える
具体的な検討に入る前に、まず、申請主義という言葉の定義について、今一度考えたい。
なぜなら、議論とは、対面であっても書面(web上の議論を含む)であっても、「言葉」の世界である。
したがって、議論の前提として、言葉の持つ「曖昧さ」をできる限り排除することが重要だと思うからである。
さて、「申請主義」の定義については、別記事に書かせていただいた。
以下、結論部分だけ抜粋させていただく。
「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」という意味である。
すなわち、我が国においては、福祉を利用しようと思ったら、申請意思を示せば良いということになる。
これが原則であるということを、まずご承知いただきたい。
(え?実際と違うと思った方もいるかもしれないが、ここでは「定義」を問題にしており、運用・解釈の問題とは異なることをご承知いただきたい。)
申請主義の例外は急迫した状況の場合
原則というからには、例外がある。
すなわち、本人の申請意思に任せることができない場合である。
生活保護を例にあげれば、急迫した状況の場合は職権による保護ができることなっている。
すなわち、そのまま放置すると生命に危険が生じる恐れのある状態と認められれば、本人の申請意思によらず、行政が保護を開始する場合があるということだ。
本稿の議論の目的
本稿の議論の目的は、
1)ここでいう急迫した状況にはないが、
2)本人が申請意思を示すことが期待できない場合
を極めて慎重に整理することにある。
なぜか。
福祉の本質は個人の尊厳である。
そして、個人の尊厳の本質は自己決定である。
したがって、本人の申請意思に関する議論は、自己決定に関する議論であり、個人の尊厳に関する議論であることから、極めて慎重に行われなければならない。
これが、申請意思を示すことができない場合を極めて慎重に整理しなければならない理由である。
申請主義を厳格な検討なく軽々しく否定批判することは間違い
この点、申請主義を厳格に検討することなく、表層的な問題だけを捉えて、軽々しく、申請主義を否定、あるいは批判する論者がいる。
こうした論者は、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士としては、完全に間違った考えであることを指摘しておきたい。
帰責性の意味
さて、ここからが本題である。
「帰責性」と述べたが、ここでいう帰責性とは、前述したとおり、法的責任に関するものではない。
すなわち、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうか、という意味で用いている。
帰責性を論じる前提としての分析的視点
本稿では、帰責性について述べる前提として、まず、申請主義における、分析的視点についてご説明したい。
なぜなら、前述したように、申請意思に関する議論は極めて慎重に行う必要があるからだ。
この点、なぜ慎重に行う必要があるのか理解できないという人もいるかもしれない。
そこで、以下、具体的に説明させていただく。
看過できない議論
さて、申請主義の議論において、看過できない議論がある、
それは、声を上げることができない人に関するものである。
具体的にはこうだ。
声を上げることのできない人がいる。
助けてと言えない人がいる。
だから助けてあげなければならない。
手を差し伸べてあげなければならない。
これを読んでどう感じるだろうか。
一般論として、これを否定する人はいないだろう。
しかし、福祉の視点としては、これは間違っている。
重大な視点が欠落しているのだ。
重要な視点は本人の能力と周辺環境
それは、本人の能力と周辺環境である。
福祉に関わる者であれば、これらを捨象して、本人を助ける、手を差し伸べるなどと決して言ってはいけない。
それは、あなたの単なるエゴだ。自己満足だ。押し付けだ。
そう言われても仕方のないようなレベルだ。
これは、福祉の本質が自己決定であることを無視しているからだ。
知るべき情報のレベル
こうした論者が知るべきことは、以下のようなものだったはずた。
すなわち、
- 本人は、情報にアクセスすることができなかったのか、
- 情報にアクセスできても、理解できなかったのか、
- 理解できたとしても、書き方が分からなかったのか、
- 書き方が分かったとしても、書けなかったのか、
- 書けたとしても、提出できなかったのか、
- 提出できたとしても、必要な書類が添付できなかったのか、
- 決定があったとしても、請求ができなかったのか(決定後に請求が必要な場合もある)、
細かすぎると思うだろうか?
そう思うなら、あなたは間違っている。
と言われても仕方がないかもしれない。
申請主義の議論は極めて分析的な検討が必要
申請主義を議論するためには、こうしたことを極めて分析的に検討することが必要だ。
なぜか?
申請主義は、本人の権利行使そのものである。
私たちが関わろうとしていることは、本人の権利に関することだ。
したがって、可哀想だからと勝手に決めつけて、手を差し伸べることは、本人の権利の侵害になる。
このことを、まず理解すべきだ。
先ほどの一般的には肯定されるだろうと述べたのはこのためだ。
福祉に関わる以上、本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることが許されないことは理解できるはずだ。
それが許されるのは、急迫した状況が差し迫っている時だけだ。
本人の権利行使がどこで阻害されているかを知る
だからこそ、我々福祉に関わる者は、本人の権利行使がどこで阻害されているのかを分析的に検討しなければならないのだ。
先ほどの例であれば、本人は、情報アクセスに課題があるのかもしれない。
前回の記事の例で述べた、ひとり親の事例がそうだ。
本人にいくら能力があっても、そもそも情報にアクセスすることができないのであれば、福祉にたどり着くことがまだできない。
申請主義の課題として挙げられる、情報の周知やアクセスの問題は、こうした分析的な検討によって初めて明らかになることだ。
分析的な視点への批判がそもそも間違い
こんなことは分析的な検討などしなくても明らかだという論者もいるかもしれない。
しかし、その姿勢そのものが間違っている。
繰り返しになるが、申請主義は本人の権利そのものだ。
そこに手を差し伸べようとすることは、極めて限定的であるべきだ。
詭弁だ、と言う人がいるかもしれない。
困っている人を見捨てるのか、と言う人がいるかもしれない。
しかし、これは詭弁でもないし、見捨てようなどとはこれっぽっちも思っていない。
そして、これを一般の方が言うのであれば、私も理解できる。
しかし、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士がそれを言うことは、私は許さない。
次回は帰責性の本質を論じる
以上、本項では、申請主義の課題を検討する上で重要な帰責性を議論する前提となる、分析的や視点についてご説明させていただいた。
次回はいよいよ、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうかを考える上で重要となる、帰責性の本質について検討したい。
#4 申請主義の課題を解決するための処方箋 その4〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その1〜 - さくらのソーシャルワーク日記