さくらのソーシャルワーク日記

社会福祉士さくらが思ったこと感じたこと

#2 申請主義を考えるヒント 1 〜行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか? その2〜

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

f:id:sakura-diversity:20211007114134p:plain

前回の振り返り

 

まずは、前回(その1)の議論を簡単に振り返りたい。


昨今の申請主義に関する議論の中で、行政に対する批判は多い。

例えば、次のようなものだ。

行政は待っているだけ。

聞いても教えてくれない。

水際作戦と称して申請させてもくれない。

これに対して、前回、次のように述べさせていただいた。

現在の申請主義に関する議論の多くが、こうした行政批判に終始していて、本質的な原因追求を行なっていない。

では、「本質的な原因追求」とは何か。

その一つは、行政の「ビヘイビア」すなわち彼らの「習性」を徹底的に追及することである。

 

理由は明快だ。


なぜ、申請主義に課題が生じるのか。

それは、ひとえに、解釈・運用上の問題だからである。

そして、なぜ行政が、そのような解釈・運用を行うのか、そこが重要だからである。

 

では、行政のビヘイビア、特性とは何か?


それを紐解いていくことが、本稿の目的である。

 

今回は、この問題解決の一発目として、「本当に行政は待っているだけなのか?」について検討していきたい。


行政に周知したいという動機はあるか?


さて、本当に行政は待っているだけなのだろうか?


まず、行政に「周知したい」という動機づけがあるか考えてみたい。


この答えは簡単である。


答えは「ある」である。

(「ない」ではないのか?と思った方もいるかもしれないが、答えは「ある」である。)

 


理由は明快である。

まず、彼ら(行政)が、慣例的に行なっている周知方法があることを思い出したい。


それは、広報、ホームページ、住民向けのしおりである。


どの役所でも、この3点セットについては必ずやっていると思う。

 

では、なぜこの3点はやっているのだろうか。


行政はアリバイ工作の動機がある


行政は、あえて言えば、アリバイ工作的に仕事をすることが多いように思う。

すなわち、義務を果たすことが重要なのだ。

 

広報やホームページ、住民のしおりに載せておけば、とりあえず義務を果たしたということになるのだろうか。

逆に、慣例的にやっていることをやらないのは、義務違反として大問題になるのかもしれない。


先の質問に戻れば、彼ら(行政)に、周知の動機づけがあるかといえば、イエスということになる。

まずは、この事実を認めよう。

(リーチしていなければ、やっていないのと同じだ、という論者もいるかもしれないが、それは議論が飛躍している。)


彼ら(行政)がやりたいかどうかは別として、ネガティブな意味ではあるが、周知をせざるを得ないのが、行政のビヘイビア(特性)ということになる。


広報がリーチしていないと考えるのは間違い


さて、この程度で(義務的に周知をしている程度で)、我々が満足できるかといえば、答えはもちろんノーである。


しかし、だからといって、広報等そのものを否定すべきかということについては疑問がある。


まず、広報やホームページ、住民のしおりが、利用者にリーチしているのかどうかを考えてみたい。

(「リーチしていないに決まっている」という論者がいるかもしれないが、以下に述べるように、その主張は間違っている。)


広報は高齢者にとって重要な情報ツール


例えば、広報である。

広報など意味がないと思っている論者もいるが、それは間違っている。


意味がないのは、特定の年代、利用者のことである。

それを全ての年代・利用者の問題のように論じているのが誤りなのだ。


世代別で言えば、年例の高い人ほど広報をよく見ている。

比較的若い世代では広報など見ない人は多いのかもしれないが、広報を全く否定するのは誤りである。


では、広報に改善余地はないのだろうか?


もちろん、改善余地はある。


これは、物理的なものと、コンテンツ的なものの両面から考える必要があると思う。

 

広報は全戸配布されているか〜物理的な改善余地〜


まず物理的な改善余地である。


広報には、読む読まない以前の大きな問題がある。

それは、新聞の折り込みで配布するという手法だ。


これも世代によって傾向が異なるかもしれないが、トレンドでいえば、新聞購読者が減っている中で、折り込みで配布するという手法には問題がありすぎる。


これは、情報がリーチする以前の問題だ。


役所によっては、駅や公共施設で配布するということをやっているかもしれないが、どれほどの人が手に取っているのだろう。


自治体によっては全戸配布など工夫をしているのかもしれないが、費用の面などから、申し出のあった人(世帯)のみポスティングするという自治体も多いだろう。


広報をいかに住民にリーチするのかという点は、福祉以前の問題として改善されなければならない。

 

全戸配布のための予算を確保すべき


色々な考え方があるだろうが、まず、広報の全戸配布のための予算をしっかり確保すること。

もし、難しいということであっても、住民の権利行使に関わる内容は、特別号を作ってでも全戸配布にする、などの手法を検討すべきだ。


これが、物理的な面での改善余地の例である。


読みたいと思わせる内容か〜コンテンツ面での改善〜


そして、コンテンツ的な面での課題である。


広報を読みたいと思う人の割合は年々減少しているように思う。

端的に言えば、読みたいと思わせられていないと思う。


自治体によっては、さまざまな工夫をしている。

中には雑誌のような美しさを追求している自治体もあるが、ポイントはそこではない。

ポイントは読みたいと思わせるかどうかだ。


情報の量、構成、分類の仕方を工夫する


まず、情報量が多すぎる

全てを読み込んでほしいのであれば、1回の紙面は、数ページでおさめるべきだ。


さらに、紙面の構成も分かりにくい

多くの誌面は、クラシファイド広告のように細かく分割されている。

これでは、隅々まで目を皿にして読まなければ、何が書いてあるか分からない。


さらに、分類の仕方が、いかにも役所風だ。

つまり、多くの自治体の広報は、分野別記事になっているということだ。

 

例えば、福祉、文化、子育て、教育という分類だ。

こうした記事の配置は、行政の組織に沿ったものであって、彼らにとっては編集しやすいのかもしれないが、市民にとっては、情報を探しにくくしているだけである。


情報を見つけやすくする工夫が必要


情報を紙面で見つけやすくする工夫が必要だ。

例えば、所得の低い人向け、ひとり親世代向け、高齢者向けなど、読者の目線で記事を編集すべきだ。


例えばだが、「申請を忘れていませんか?」とか「ひとり親の方へ」など、「自分に向けられた記事だ」と分かるような見出しになっていれば、そこだけに目を向ければ良いわけだ。


広報は広告のように訴求するかを考えるべき


広報の記事は、ホームページと違って、どれだけ読まれているかカウントを取ることが難しいかもしれない。

このため、効果検証を行なっている自治体は少ないだろうが、いかに読者に訴求しているかにこだわるべきだ。

つまり、例えて言うならば、一つ一つの記事を、車内吊り広告のように、読者の視点で考えるべきだ。


行政が変わる可能性があるか


さて、では、今後行政が広報の配布方法や記事の編集方法を変える可能性はあるのだろうか。

おそらく、外圧がなければ、変わる可能性は少ないだろう。

今のままで「周知」という義務を果たしている以上、改善の動機は少ないと考えるべきだろう。


むしろ、「周知の義務」を果たそうと、とにかく情報だけ載せてくるということも考えられる。

そうなると、記事の数ばかり増えて、ページがさらに増えて、今よりも見づらくなる可能性もある。


私たちの行動が変わる可能性はあるか


一方で私たちの行動は変わるだろうか。


広報が見づらくなっていくにつれて、ますます私たちも広報を見なくなり、関心が薄れていく

あえて言えば、広報などどうでもよくなる。


こうなったら、もう改善余地はなくなってしまう。


行政に対する無関心が高じた例


ある論者が、行政は待っているだけ、と言いながら、自身は役所から通知が来ても中身を見ないでゴミ箱に捨てているなどと述べていたが、これは、行政に対する無関心が高じた典型例だろう。


こうした輩は、広報だろうが、ホームページだろうが、SNSだろうが、プッシュ型情報配信だろうが意味がない。

全て無視するからだ。


これでは申請主義を否定したくなるのも分かる。

もう面倒くさいのだ。


面倒くさいと思う人がいることがスタートライン


繰り返しになるが、申請主義は権利そのものであり、申請主義の否定は権利を否定することだ。


私たち福祉に関わる者がやるべきことは、いかにして国民が適切に権利行使できるようにするかを考えることだ。


そう考えると、前述した論者はまさに反面教師ということになろう。

つまり、ここがスタートラインなのだ。


行政はただ義務を果たそうとするだけ


周知を義務的に行う行政は、自己改善能力は低い。

一方で、私たちは行政に対して無関心で、自らの権利行使すら否定しようとしている。


行政にとっては、プッシュ型配信の仕組みで義務が果たされるなら、喜んでやるだろう。


彼らのビヘイビアはまさにそこにあるからだ。


ポイントは、行政がいかにユーザー目線を持つかにかかっている


問題は、行政がいかにユーザー目線(利用者目線)で情報を発信するようになるかである。


行政の記事は、まさにマーケティングと同じと心得るべきである。

つまり、

 

  1. 認知させ
  2. 関心を持たせる
  3. 関わりを作り
  4. 参加させる


こうした一連のプロセスを行政に組み込むのだ。


行政にユーザー目線を持たせるためには


そのためにどうしたら良いか。

行政にはユーザー目線がないことを前提にすべきだ。

つまり、見えていないし、見ようとしていないのである。


したがって、行政の目となり、耳となる者が必要だ。


つまり、我々福祉に関わる者、当事者、そして一般市民、議員が、行政の広報に対して、高い関心を向けなければ、行政が変わることはない


抽象的な要望では意味がない


そして、もう一つ大事なことがある。


行政を動かすには、行政の行動に直結するように働きかけることが必要だ。


残念ながら、抽象的な要望書の類を出しているだけではだめなのだ。

繰り返し述べているように、分析的に、どこをどうすべきなのか、行政に実現可能な提案をするようにしなければ、要望書も単なる当事者の自己満足で終わってしまう。


この辺りの議論については、大変重要なことなので、また別の機会に述べたいと思う。


次回は、「行政は、本当に聞いても教えてくれないのか?」について、述べたいと思う。