さくらのソーシャルワーク日記

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申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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申請主義は、行政の財政負担を軽減しているという指摘があります。


これは本当でしょうか?


本稿では、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて考えたいと思います。


以下、本稿の構成です。

少し長くなるため、分割して掲載したいと思います。


目次


国による経費削減政策


まず、これまでの経緯について考えてみたいと思います。


確かに、これまでの我が国の救貧対策においては、経費節減のため、

  • 国民への制度の流布の制約や、
  • 対象の厳格化

を図ってきたという経緯があります。


このことについては、赤石(2003)の「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」で詳しく論じられています。


赤石の指摘は、大変示唆に富んでおり、別の機会に詳しく検討したいと思いますが、大変重要と思われる指摘があるので、ここでは、その一点だけ取り上げさせていただきます。


経費削減のため国による積極的手立てがなかった

 

すなわち、「保護の運用上、漏救に対する積極的手立ては一貫して講じられることがな」かったと指摘している点です。


取り上げられているのは生活保護の事例です。


戦後の生活保護法において、申請保護の原則が定められました。

これは、申請主義を導入し、生活保護の権利性を明確にしたということを意味しています。


問題なのは、権利性を明確にしたにもかかわらず、国は積極的な利用を抑制しようとした、ということです。


国としてアクセルとブレーキを同時に踏むようなことをした目的は何でしょうか?


それが経費節減です。


理由は明確です。

納税者が減って、保護受給者ばかり増えれば、国が財政面で立ち行かなくなると考えたからです。


経費削減は措置の時代からあった考え


しかし、この経費削減という考え方自体は、措置の時代からあったものであるということに注意が必要です。


すなわち、申請主義の導入と同時に、国が経費削減に奔走し始めたということではないということです。


措置であっても、申請主義であっても、国の経費節減という考え方は変わりません。

したがって、明石のいう「漏救」は、申請主義に始まったものではない点を改めて確認しておきたいと思います。


申請主義の国民の権利としての意義


むしろ、申請主義の導入によって、国民の権利としての社会保障の地位は揺るぎないものとなった点に注目すべきです。


この意味において、我々福祉に関わる者としては、申請主義の導入を歓迎すべきだからです。


しかし、申請主義ならではの課題も登場したことも事実です。


福祉関係者としては、申請主義を歓迎しつつ、申請主義が真に国民のためになるように課題の解決に尽力すべきだというのが、正しい考え方ではないかと思います。


仮に、国が経費削減のために、意図的に制度を骨抜きにしようとしているのであれば尚更です。


申請主義の権利性を確固とするための課題


以上を踏まえて、我々福祉関係者が取り組むべき、解決すべき課題について検討します。

具体的には、以下の3点を挙げさせていただきます。


すなわち、

  1. 行政からの情報提供の不十分性
  2. 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
  3. 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪

です。


順にご説明させていただきます。


行政からの情報提供の不十分性


 行政からの情報提供と申請主義はセットと考えることが妥当


行政からの情報提供については、高藤(1991)の指摘が非常に分かりやすいので、ここで引用します。


すなわち、「一般の住民はせっかく自己に対する給付立法がなされても, それを知らなかったために失権してしまうことが多い。

政府当局による十分な広報活動を伴わないとき, いかに優れた社会保障給付制度も画餅に帰する」との指摘です。


この指摘からも言えることは、行政からの情報提供と申請主義はセットと考えることが妥当だということです。


つまり、行政からの情報提供が十分になされないと、申請主義を導入したことによる権利性の発揮が損なわれるということです。


申請主義と行政からの情報提供を一旦切り離して考えるべき


この申請主義の権利性が阻害されるという問題は、前述した赤石の指摘からも明らかなように、国の、

  • 積極的な利用を抑制しよう、
  • 意図的に情報を抑制しよう

という意図が見え隠れすることで、さらに複雑化しています。


私としては、この問題はもっとシンプルに考えるべきと思っています。


すなわち、申請主義と行政からの情報提供を一旦切り離して考えるべきということです。


粘り強く国に対して要望していくことが重要


これは敢えて述べますが、行政が意図的に情報を抑制して、申請主義の導入による権利性の発揮を骨抜きにしようとしているとの考えについては、ミスリードになる可能性があり、注意が必要と考えています。


そのような意図が仮に行政にあったとしても、現代において、国が積極的に情報の抑制に努めているという明確な根拠はありません。(明確な「指示文書」のようなものが出てくれば別ですが。)


積極性に欠けるという意見もあると思いますが、それを言ってしまうと、「ではどこまで情報提供すべきか」という問題になってしまいます。


この議論は、基準があいまいなままでは抽象的な議論に終始してしまう可能性があることが懸念されます。


したがって、この点について、私は、

  • 国の広報の状況を見守りつつ、
  • 地道に、粘り強く国に対して要望していくこと

が重要だと考えています。


国や行政機関などに対する義務付けは慎重に検討すべき


また、国や行政機関に対し、情報周知の義務付けをしていくという考え方もあります。


国に積極的な周知を求めていくという意味での義務付けであれば異論はありません。

しかし、この点についても、慎重な検討が必要とも思います。


理由は、

  • 基準次第では、国の周知義務が骨抜きになってしまう可能性があるから

です。

 

具体的に説明します。


周知の義務について法律に明記されたとしても、その方法や頻度についてまで法律に定められることは考えにくいです。

その場合、大臣告示(厚生労働大臣の定める基準)など下位の法規範で定められることになります。


そうなると、国にとって都合の良い基準を定められてしまう可能性が懸念されます。

 

すなわち、

  • 現在よりも周知の方法や頻度が改悪されたとしても、
  • 法律上は義務を果たしているものとされてしまう可能性がある

ということです。


また、地方公共団体については、その方法や基準を条例等で定めることになります。

地方において、十分に議論が尽くされれば良いのですが、国と同様に、現在よりも方法や頻度において改悪されてしまう可能性も否定できません。


したがって、義務付けの大前提として、

  • 周知の方法や頻度がなどの具体的な基準に関する議論が深まり、
  • 基本的な方向性を法律レベルで書き込むことができること

が、マストであることを指摘したいと思います。

 

これが、最初に「慎重な検討が必要」と述べた理由です。


なお、行政の情報提供を義務付けすべきとの論点については、3点目の課題(申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪)で、改めて触れたいと思います。


通知主義への転換という頓珍漢な議論


さらに関連して述べれば、「申請主義から通知主義に転換すべき」との意見もありますが、これもまた頓珍漢な話だと考えています。


「通知主義」という言葉の意味は論者によってさまざまだと思いますが、申請主義との対比で一般的に述べられているのは、行政から積極的に情報発信すべきということだと思います。


しかし、これまでの説明からも明らかなように、そのような意味での「通知主義」は、まさしく申請主義を補完するものです。


すなわち、申請主義と論者のいう通知主義は「択一的な関係ではない」ということです。


にもかかわらず、「申請主義から通知主義に転換すべき」のように択一的な関係で捉えようとするから、「頓珍漢」だと感じるわけです。

 

○まとめ


以上を踏まえた私の意見としては、

  • 申請主義を一旦肯定した上で、
  • その課題として行政からの情報提供の程度や在り方を考えるべき

ということになります。

 

結論においては非常にシンプルな内容ですが、これを「そりゃそうだよね」と感じていただければ本稿の目的は一つ果たせたかなと思います。


論点の2点目以降については、次回に回します。

 

次回

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(参考文献)


高藤昭「社会保障給付の非遡及主義立法と広報義務 永井訴訟京都地裁判決(本誌751号238頁)の検討をとおして」判例タイムズ766号39頁以下(1991)


赤石壽美「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」(2003)