さくらのソーシャルワーク日記

社会福祉士さくらが思ったこと感じたこと

申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か? その3

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本稿は、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて検討しているものです。


第1回では、申請主義の権利性を確固とするため、私たち福祉関係者が取り組む必要のある、解決すべき課題を3点を挙げさせていただきました。


すなわち、

  1. 行政からの情報提供の不十分性
  2. 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
  3. 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪

の3点です。


本稿では、3点目の「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」からご説明していきます。


以下、本稿の構成です。

 

 

申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪


申請を諦めることの問題の深刻さ


ここまでにご説明した、申請主義における問題点は、ある意味で分かりやすいもののように思います。


つまり、

  • 制度に関する情報の周知がなされないこと、
  • 申請しない(あるいは、できない)ことによって、本来要件を満たしているにも関わらず放置される結果となってしまうこと、

の2点です。

これらは、申請主義における課題として、理解しやすいと思います。


今回ご説明したい、3点目の問題「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」は、やや分かりにくい、という点で、最も深刻な問題かもしれません。


具体的に説明します。


権利性の本質に関わる行政処分


申請主義における、権利性の本質に関わるものとして、「行政処分」が挙げられます。


申請とは、法令等に基づき行われるものであり、国民(あるいは住民等)の権利の行使として行われるものです。


一方、行政処分とは、申請のあったものについて、行政が行った審査の結果として、可否を示すものです。

 

そして、この審査結果に対しては、権利の救済のための手続き、すなわち、行政訴訟制度の対象となる点が大変重要です。


不服申立ての対象になることが、重要な意味を持つ


行政訴訟制度、すなわち、行政事件訴訟と行政不服申立ては、我が国における、権利救済の制度です。


したがって、申請主義における権利性とは、

  • 申請が受理され、
  • 行政が審査を行い、
  • その結果について不服がある場合、
  • 救済の対象になる

ということです。


※ただし、補助金の交付を求めるものについては行政処分には当たらず、いわゆる教示の対象になっていない場合があるので、注意が必要です。


この点で、申請主義においては、申請が受理されるということが、大変重要な意義を持つということになります。


大変残念なことに、申請主義に関する議論の中で、その法的な意義についてまで述べられているものは多くはありません。


おそらく、支援の現場にあって、法的意義以前の問題として、すなわち、本稿で述べている、

  • 1点目の課題「行政からの情報提供の不十分性」、あるいは、
  • 2点目の課題「未申請(申請しない・できない)による漏救の放置」

の問題として、申請主義の課題を捉えている論者が多いからだと思います。


しかしながら、申請主義の権利性の最たるものは、この権利救済の道が開かれている点です。

このことについては、申請主義を論じる前提として必ず確認しておくべきことと思います。


申請を諦めることは単なる相談事例となる


では、申請前に申請を諦めることによって、権利性が収奪されるとはどういうことでしょうか?


生活保護の例で考えてみます。


生活保護の申請窓口では、資産や扶養親族、その他自立した生活の可否に関するさまざまや聞き取りが行われます。


こうしたやりとりの中で、申請者が、申請を諦めるということが、実際に起きています。


行政がこれを意図的に行っているのかどうかはともかく、申請者が結果的に諦めるという意味では、いわゆる水際作戦と呼ばれているものと、やっていることは同じです。


問題は、申請を諦めた場合、

  • 申請に当たらず(申請受理とはならず)、
  • 単なる相談事例として扱われる、

ということです。


この「単なる相談事例として扱われる」という点が極めて問題です。


単なる相談事例とすることで権利を奪う


単なる相談事例とはどういうことでしょうか?


前述した行政処分は、あくまでも申請受理したものだけが対象になります。


この事例のように、相談事例として処理されてしまった場合、申請受理とはならず、つまり、行政処分には至らないということです。


すなわち、申請主義が本来持っているはずの、権利救済の道が閉ざされてしまうことを意味しています。


言い換えると、申請主義においては、申請を諦めるさせることによって、その本来の権利性を奪うことができるということです。


これはとても恐ろしいことです。


もっと恐ろしいのは、誰も悪意がないこと


もっと恐ろしいのは、そのことに誰も気づいていない可能性があるということです。(確信犯だとしたら、極めて悪質と言わざるを得ないでしょう)


本人はもちろん、市役所の生活保護の窓口の担当者も、「権利を剥奪された(剥奪した)」という思いを持たないかもしれません。


そのくらい、さりげなく権利を奪ってしまう、そこに大きな問題があります。


さらなる問題


この問題に関連して、さらなる問題があります。すなわち、

  • 行政が必要な情報提供をしなかったことで、結果的に申請を諦めた事例
  • 申請の時効や不遡及を定めている事例

において、権利の収奪との関連が生じるということです。


この点については、次回に回します。


(参考文献)


高藤昭「社会保障給付の非遡及主義立法と広報義務 永井訴訟京都地裁判決(本誌751号238頁)の検討をとおして」判例タイムズ766号39頁以下(1991)


赤石壽美「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」(2003)