さくらのソーシャルワーク日記

社会福祉士さくらが思ったこと感じたこと

#2 市役所は申請主義の上にあぐらをかいているのか その2

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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前回からの続きである。

前記事

 


市役所が本来の役割を果たしていないことが申請主義の批判に繋がっている


繰り返しになるが、申請主義とは、申請意思を示すことで権利行使することを原則とするものだ。

 


そして、申請意思は、通常は市役所などの行政機関に対して行われる。


にもかかわらず、市民の権利行使に応えるべき市役所が本来の役割を果たしていないのだとしたら、申請主義に対する批判に繋がってもおかしくない。

 

申請主義なんておかしい。

市役所が自ら対象者を特定して給付の対象にすべきだ。


市役所のいわば怠慢とも呼べるような状況に出くわしてしまったら、こう主張する論者が現れてもなんら不思議ではない。


しかし、本当に「市役所が自ら対象者を特定して給付すべき」なのだろうか?


市役所が自ら対象者を特定して給付すべきか?


この点は大変重要なので、例を挙げて検討したい。


生活保護の場合


生活保護は、言うまでもなく申請主義だ。

申請保護の原則により、申請意思がなければ保護を受けることはできない。

 

申請主義はおかしい。

市役所が自ら対象者を特定して給付の対象にすべきだ。

 

ある日、福祉事務所の職員が突然訪ねてきて、

「あなたを保護の対象にするので、生活状況を確認させてもらいます」

と言って、突然家の中に上がってくる。

そんなことが許されるだろうか。


○介護給付の場合


ある日、市役所の認定調査員が突然訪ねてきて、

「あなたを介護給付の対象にするので、認定調査をさせてもらいます」

と言って、突然家の中に上がってくる。

そんなことが許されるだろうか。

 

申請主義はおかしい。

市役所が自ら対象者を特定して給付の対象にすべきだ。


本当にそうだろうか?


職権主義(措置)が求められているのか


この点については、申請主義の対義語・反対語から考えてみたい。


○申請主義の対義語・反対語


申請主義の対義語、あるいは申請主義の反対語は、職権主義、すなわち措置だ。


これは、まさしく、

市役所が自ら対象者を特定して給付の対象にする

という仕組みのことだ。


申請主義はおかしい。

こう主張する論者がいる。


だとすると、申請主義はおかしいと主張する論者の結論は、職権主義、すなわち措置を原則とすべきということになる。


しかし、本当にそうだろうか?


○職権による保護は例外


生活保護においては、急迫した状況では、職権による保護が認められている。


しかし、職権による保護はもちろん例外的なものだ。


○申請主義を否定・批判している論者は職権主義までを求めていない


前述したとおり、申請主義を否定したり、批判している論者がいる。


こうした論者のほとんどは、申請主義を廃止して、職権主義、すなわち措置を原則とすべきだ、とまでは言っていない


これは申請主義を否定・批判することと矛盾しないか?


○なぜ、申請主義を否定・批判するのか


では、そうした論者は、なぜ申請主義を否定したり、批判するのだろうか。


一つの考えとしては、その方が世論の受けがいいから、ということだろう。


申請主義の定義を曲解し、誤用し、自らの都合の良い解釈をして見せれば、いかにも申請主義が悪者のように見えてくる。


○申請主義の定義を曲解・誤用したことのツケ


しかし、この手法は大変危険だ。


なぜなら、解決すべき問題を正しく定義しなければ、本質的な問題の解決を困難にするだけだからだ。


世論に自分の主張を都合よく見せたい、という気持ちは分かる。

しかし、本当に問題を解決したいと願っているならば、その気持ちは抑えなければならない。


そうした論者が、人の助けになりたいと願う気持ちは分かる。

だとするならば、そうした論者に必要なのは、申請主義は守るべき存在だと認めることだ、


問題なのは、申請主義ではなく、行政なのではないか?


言葉のもつ力


言葉の力は、とてもパワフルだ。

(言うまでもないが、言葉とは発語のことを指しているのではない。)

世の中の全ての問題は、言葉によって解決されると言ってもよいほどだ。


逆に、言葉がなければ、世の中の問題は解決されねいだろう。

だからこそ、議論の前提となるの言葉には拘らなければならない


申請主義を否定・批判する論者に聞きたい。

申請主義の壁ではなく、行政の壁ではないのか?


○多くの申請主義の否定・批判は申請主義を曲解・誤解している


言葉の綾(あや)だという人もいるかもしれない。

しかし、これは綾でもなんでもない。

単なる、曲解であり、誤用だ。


まず、この点を認めるべきだ。


○問題の本質的な課題を解決するためには、申請主義を否定・批判したい気持ちを抑えなければやらない


確かに、申請主義を否定したり、批判したりすることは、とても分かりやすい。


しかし、問題の本質的な課題を解決したいと思っているならば、申請主義を否定したい、批判したいという気持ちをぐっと抑えるべきだ。


申請主義は守るべきもの


そして、繰り返し述べているように、申請主義を否定したり、批判することは、個人の尊厳を否定、あるいは批判することだ。

この事実を、そろそろ認めるべきだ。


申請主義は守るべきものだ。

批判すべきは、行政だ。

改善すべきは、解釈や運用だ。


福祉の本質を理解しているならば、個人の尊厳を守りたいのならば、本質的な問題を解決しなければならない。


申請主義の否定や批判に逃げてはだめだ。

#1 市役所は申請主義の上にあぐらをかいているのか その1


申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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※本稿では、市役所を行政機関のうち主に地方自治体を代表するものとして使用していることにご留意いただきたい。

 


市役所に対する批判と申請主義


申請主義に関する議論の中で、市役所に対する批判は多い。

 

市役所は待っているだけ。制度があることを教えてくれない。

聞いても、教えてくれない。

窓口に行っても、申請させてもくれない。


信じられないようなことだが、これらは実際に起きていることだ。


そして、この原因が申請主義によるものだとしたら、それはとんでもないことだ。


申請主義とは何か


申請主義とは何か。

これについては、私の過去記事で、詳細に説明させていただいている。

端的に言えば、

「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」

という意味である。


この意思表示は、通常、市役所などの行政機関に対して行われる。

ここが大変重要なポイントだ。


すなわち、市役所が申請主義において極めて重要な役割を担っているということを、まずしっかりと認識したい。


市役所の役割


市役所の役割については、言うまでもないかもしれないが、念のため確認しておきたい。


市役所の役割をごく単純化すれば、

 

  1. 市民生活に関わる様々な制度や手続きについて周知し、
  2. 市民から申請意思があれば、速やかに手続きを開始しなければならない


ということだ。


申請主義において、市役所の責任は極めて重要であり、しっかりとその役割を果たしてくれなければならない。


しかし、実際にはどうだろう。


前述したとおり、現実には、怠慢とも言える市役所の実態がある。

そして、この結果、市役所に対する不満が噴出しているのである。


申請主義において重要な役割を果たすべき市役所で、なぜ、このようなことが起きているのだろうか。


これは、いったいどういうことなのか?

次に、市役所の怠慢的な態度の根源が何か考えてみたい。


行政には自浄作用がない


この点について、私は次の記事の中で、

「行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか?」

として、行政の問題点について論じている。

興味のある方はご覧いただきたい。(シリーズ継続中)

この中で私が述べていることを端的に言えば、

市役所には、自浄作用がない。

この一言に尽きる。

つまり、外圧がなければ、さまざまな問題が改善されにくい組織なのだ。


市役所は不親切だ


先の記事の中でも述べたが、市役所と関わりを持ったことのある人であれば、市役所の職員は不親切だと感じたことが一度はあるのではないか。


私自身、市役所の職員は不親切だと感じたことのある一人である。


愛想がない、上から目線、聞いたことしか答えない。

それでも、最終的に必要な手続きが済めばまだましだ。


人を変え、時間をかけて、何度も同じことを説明した挙句、ここでは手続きができないとか、必要な書類が不足しているとか、分かる職員がいないなどと言って、出直す羽目にでもなれば怒り心頭だろう。


ご説明は佳境にさしかかっているが、長くなったので、この続きは次の記事でご説明したい。


次記事

市役所が本来の役割を果たしていないことが申請主義の批判に繋がっている

#4 申請主義の課題を解決するための処方箋 その4〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その1〜

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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前回までの振り返り


本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まる。その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。

 


ここまで(第1回から第3回)、権利侵害(すなわち意思決定における支障)の態様を分類整理する前提として、当事者や社会課題に応じて検討すべきことを述べた。


本稿では、前回に引き続き、権利侵害の態様を分類する上で、重要な要因となる「帰責性」について考えていきたい。

非常にボリュームのある内容なので、複数回に分けてご説明したい。


帰責性とは


ここでいう「帰責性」とは、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうか、という意味で用いていることにご留意いただきたい。


申請主義に介入する前提として分析的な視点が不可欠

 

前回(第3回)は、申請主義の課題を検討する上で重要な帰責性を議論する前提となる、分析的な視点についてご説明させていただいた。



申請主義は福祉の根幹であり、ここに介入していくことは、極めて慎重にならなければならない

前回ご説明した、分析的な視点が求められているのは、まさにこのためである。

したがって、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士が申請主義を軽々しく批判、ましてや否定することが許されないことは、繰り返し伝えたい。


さて、その上でということになるが、今回はいよいよ、申請主義の課題を検討する上で重要となる「帰責性」の本質について検討したい。


整理分類の目的は、本質的な問題の発見


帰責性の本質を検討していく上で、「ロジカル」に、その要因を整理分類していくことが必要だ。

理由は明快である。


繰り返しになるが、申請主義の議論は分析的な視点が不可欠だ。

権利侵害に関わる問題である以上、この議論は極めて慎重に議論される必要があるからだ。


そして、これは同時に、申請主義の本質的な課題の一端をあぶり出す作業でもある。


課題を解決する上で、どこに本質的な問題が生じているのか、これを明らかにすることが重要だからだ。


申請主義を検討する上で重要となるファクター

 

帰責性の本質を検討するには、まず、申請主義を検討する上で重要となるファクターについて整理することが重要になる。


申請主義を検討する上で重要となるファクターは、言うまでもなく、一つではない。

大小さまざまなものがあるが、ここでは、大きく3点に絞ってご説明したい。


具体的には、

  1. 登場人物
  2. プロセス
  3. 能力

の3点についてご説明する。


登場人物


1つ目のファクターは登場人物だ。

ここでは、具体的にイメージすることが大切になってくる。

なぜならば、我々がやろうとしたいることは、机上の空論ではなく、現実の課題を解決することだからだ。

 

早速、登場人物をイメージしてみよう。

具体的な登場人物で言えば、

  • 本人、家族
  • 行政
  • 民間事業者
  • その他、本人や家族に関わる大勢の人

などが思い浮かぶだろう。

 

もちろん、具体的な事例に当てはめれば、もっとたくさんの登場人物がイメージできると思う。

ここでは、頭の中に浮かんだ登場人物を、出来るだけ具体的に言葉にしていくのがポイントだ。

 

プロセス

 

2つ目のファクターはプロセスだ。

プロセスは目に見えにくいかもしれないが、「認知や行動」をベースに考えていくと分かりやすいと思う。

 

具体的なプロセスで言えば、

  • 課題の発生・認知
  • 情報の収集・認知
  • 相談
  • 申請
  • 給付・支援の開始
  • フォロー

などがある。

 

プロセスを考えるときは、このように認知や行動の順に考えることが重要だ。

1つ目の、課題の発生・認知などは、その端的な例だ。


プロセスはハイレベルで見ていくことが重要


プロセスを見ていくときに大事なことは、大まかなハイレベルのプロセスを見ていくことだ。


この点については、別途ご説明したいと思うが、プロセスに関する議論については、極めて重要な視点がある。

すなわち、瑣末なところを取り上げても、対処療法に終わってしまうということだ。

いわゆる、もぐらたたき状態になってしまうということだ。


プロセスにおいては、根本解決を目指すべき


プロセスにおいては、必ずボトルネックが存在する。

それを解決しなければ、問題は根本的には解決しない

そのためには、ハイレベルのプロセスの把握が必要であるということを、ここではお伝えしておく。

 

次回は3つ目のファクター「能力」


今回は申請主義を検討する上で重要となるファクターのうち、登場人物とプロセスについてご説明させていただいた。

次回は3つ目のファクターとなる「能力」についてご説明したい。

#5 申請主義の課題を解決するための処方箋 その5〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その2〜 - さくらのソーシャルワーク日記

申請主義に反対する意見は、福祉の本質を理解しているか

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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申請主義に反対する意見は少なからずある。


これまでの議論からも明らかであるが、申請主義に反対する意見は、極めて自然なことと思う。


この点について、私は、以下のように述べている。

福祉なんて、メニューのない食堂と同じだ。

そんなことを言っていた人もいた。

 

言っていることは分かる。

 

そして、これを一般市民が言うのは分かる。

支援者や支援団体が言うのも分かる。

本人や家族、あるいは親族が言うのも分かる。

行政はどんなに苦しい時でも、手を差し伸べてくれない。

問い合わせても教えてくれない。

窓口に行っても申請すらさせてくれない。


これらが、すべて申請主義がもたらした災いなのだとしたら、申請主義に反対する声が上がっても、何ら不思議ではない。


むしろ、極めて自然な感情だ。


これに対して、私は、次のように述べさせていただいた。

でも、これをソーシャルワーカーが言っちゃだめじゃないか?

少なくとも、社会福祉士は言っちゃだめじゃないか?

この理由は明快である。


福祉の本質は、個人の尊厳である。

そして、個人の尊厳は自己決定である。


申請主義は自己決定そのものだ。


したがって、申請主義の否定、あるいは批判は、自己決定を否定すること、あるいは批判することだ。


すなわち、福祉の本質である、個人の尊厳を否定すること、あるいは批判することだからである。


この点について、私は次のように述べている。

ソーシャルワーカーが申請主義を否定する、あるいは批判することは、例えば、弁護士が法治主義を否定すること、あるいは批判することに似ているように感じるからだ。


福祉に関わる人間は、個人の尊厳を守る最後の砦だ。

ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士が、申請主義を否定したり、批判することは許されない


福祉の本質を理解しているからこそ、我々、福祉に関わる人間は、申請主義と、すなわち個人の尊厳と正面から向き合っているのだ。


申請主義の否定や批判に逃げてはだめだ。

#2 申請主義を考えるヒント 1 〜行政(役所)の職員はなぜ不親切なのか? その2〜

申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記

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前回の振り返り

 

まずは、前回(その1)の議論を簡単に振り返りたい。


昨今の申請主義に関する議論の中で、行政に対する批判は多い。

例えば、次のようなものだ。

行政は待っているだけ。

聞いても教えてくれない。

水際作戦と称して申請させてもくれない。

これに対して、前回、次のように述べさせていただいた。

現在の申請主義に関する議論の多くが、こうした行政批判に終始していて、本質的な原因追求を行なっていない。

では、「本質的な原因追求」とは何か。

その一つは、行政の「ビヘイビア」すなわち彼らの「習性」を徹底的に追及することである。

 

理由は明快だ。


なぜ、申請主義に課題が生じるのか。

それは、ひとえに、解釈・運用上の問題だからである。

そして、なぜ行政が、そのような解釈・運用を行うのか、そこが重要だからである。

 

では、行政のビヘイビア、特性とは何か?


それを紐解いていくことが、本稿の目的である。

 

今回は、この問題解決の一発目として、「本当に行政は待っているだけなのか?」について検討していきたい。


行政に周知したいという動機はあるか?


さて、本当に行政は待っているだけなのだろうか?


まず、行政に「周知したい」という動機づけがあるか考えてみたい。


この答えは簡単である。


答えは「ある」である。

(「ない」ではないのか?と思った方もいるかもしれないが、答えは「ある」である。)

 


理由は明快である。

まず、彼ら(行政)が、慣例的に行なっている周知方法があることを思い出したい。


それは、広報、ホームページ、住民向けのしおりである。


どの役所でも、この3点セットについては必ずやっていると思う。

 

では、なぜこの3点はやっているのだろうか。


行政はアリバイ工作の動機がある


行政は、あえて言えば、アリバイ工作的に仕事をすることが多いように思う。

すなわち、義務を果たすことが重要なのだ。

 

広報やホームページ、住民のしおりに載せておけば、とりあえず義務を果たしたということになるのだろうか。

逆に、慣例的にやっていることをやらないのは、義務違反として大問題になるのかもしれない。


先の質問に戻れば、彼ら(行政)に、周知の動機づけがあるかといえば、イエスということになる。

まずは、この事実を認めよう。

(リーチしていなければ、やっていないのと同じだ、という論者もいるかもしれないが、それは議論が飛躍している。)


彼ら(行政)がやりたいかどうかは別として、ネガティブな意味ではあるが、周知をせざるを得ないのが、行政のビヘイビア(特性)ということになる。


広報がリーチしていないと考えるのは間違い


さて、この程度で(義務的に周知をしている程度で)、我々が満足できるかといえば、答えはもちろんノーである。


しかし、だからといって、広報等そのものを否定すべきかということについては疑問がある。


まず、広報やホームページ、住民のしおりが、利用者にリーチしているのかどうかを考えてみたい。

(「リーチしていないに決まっている」という論者がいるかもしれないが、以下に述べるように、その主張は間違っている。)


広報は高齢者にとって重要な情報ツール


例えば、広報である。

広報など意味がないと思っている論者もいるが、それは間違っている。


意味がないのは、特定の年代、利用者のことである。

それを全ての年代・利用者の問題のように論じているのが誤りなのだ。


世代別で言えば、年例の高い人ほど広報をよく見ている。

比較的若い世代では広報など見ない人は多いのかもしれないが、広報を全く否定するのは誤りである。


では、広報に改善余地はないのだろうか?


もちろん、改善余地はある。


これは、物理的なものと、コンテンツ的なものの両面から考える必要があると思う。

 

広報は全戸配布されているか〜物理的な改善余地〜


まず物理的な改善余地である。


広報には、読む読まない以前の大きな問題がある。

それは、新聞の折り込みで配布するという手法だ。


これも世代によって傾向が異なるかもしれないが、トレンドでいえば、新聞購読者が減っている中で、折り込みで配布するという手法には問題がありすぎる。


これは、情報がリーチする以前の問題だ。


役所によっては、駅や公共施設で配布するということをやっているかもしれないが、どれほどの人が手に取っているのだろう。


自治体によっては全戸配布など工夫をしているのかもしれないが、費用の面などから、申し出のあった人(世帯)のみポスティングするという自治体も多いだろう。


広報をいかに住民にリーチするのかという点は、福祉以前の問題として改善されなければならない。

 

全戸配布のための予算を確保すべき


色々な考え方があるだろうが、まず、広報の全戸配布のための予算をしっかり確保すること。

もし、難しいということであっても、住民の権利行使に関わる内容は、特別号を作ってでも全戸配布にする、などの手法を検討すべきだ。


これが、物理的な面での改善余地の例である。


読みたいと思わせる内容か〜コンテンツ面での改善〜


そして、コンテンツ的な面での課題である。


広報を読みたいと思う人の割合は年々減少しているように思う。

端的に言えば、読みたいと思わせられていないと思う。


自治体によっては、さまざまな工夫をしている。

中には雑誌のような美しさを追求している自治体もあるが、ポイントはそこではない。

ポイントは読みたいと思わせるかどうかだ。


情報の量、構成、分類の仕方を工夫する


まず、情報量が多すぎる

全てを読み込んでほしいのであれば、1回の紙面は、数ページでおさめるべきだ。


さらに、紙面の構成も分かりにくい

多くの誌面は、クラシファイド広告のように細かく分割されている。

これでは、隅々まで目を皿にして読まなければ、何が書いてあるか分からない。


さらに、分類の仕方が、いかにも役所風だ。

つまり、多くの自治体の広報は、分野別記事になっているということだ。

 

例えば、福祉、文化、子育て、教育という分類だ。

こうした記事の配置は、行政の組織に沿ったものであって、彼らにとっては編集しやすいのかもしれないが、市民にとっては、情報を探しにくくしているだけである。


情報を見つけやすくする工夫が必要


情報を紙面で見つけやすくする工夫が必要だ。

例えば、所得の低い人向け、ひとり親世代向け、高齢者向けなど、読者の目線で記事を編集すべきだ。


例えばだが、「申請を忘れていませんか?」とか「ひとり親の方へ」など、「自分に向けられた記事だ」と分かるような見出しになっていれば、そこだけに目を向ければ良いわけだ。


広報は広告のように訴求するかを考えるべき


広報の記事は、ホームページと違って、どれだけ読まれているかカウントを取ることが難しいかもしれない。

このため、効果検証を行なっている自治体は少ないだろうが、いかに読者に訴求しているかにこだわるべきだ。

つまり、例えて言うならば、一つ一つの記事を、車内吊り広告のように、読者の視点で考えるべきだ。


行政が変わる可能性があるか


さて、では、今後行政が広報の配布方法や記事の編集方法を変える可能性はあるのだろうか。

おそらく、外圧がなければ、変わる可能性は少ないだろう。

今のままで「周知」という義務を果たしている以上、改善の動機は少ないと考えるべきだろう。


むしろ、「周知の義務」を果たそうと、とにかく情報だけ載せてくるということも考えられる。

そうなると、記事の数ばかり増えて、ページがさらに増えて、今よりも見づらくなる可能性もある。


私たちの行動が変わる可能性はあるか


一方で私たちの行動は変わるだろうか。


広報が見づらくなっていくにつれて、ますます私たちも広報を見なくなり、関心が薄れていく

あえて言えば、広報などどうでもよくなる。


こうなったら、もう改善余地はなくなってしまう。


行政に対する無関心が高じた例


ある論者が、行政は待っているだけ、と言いながら、自身は役所から通知が来ても中身を見ないでゴミ箱に捨てているなどと述べていたが、これは、行政に対する無関心が高じた典型例だろう。


こうした輩は、広報だろうが、ホームページだろうが、SNSだろうが、プッシュ型情報配信だろうが意味がない。

全て無視するからだ。


これでは申請主義を否定したくなるのも分かる。

もう面倒くさいのだ。


面倒くさいと思う人がいることがスタートライン


繰り返しになるが、申請主義は権利そのものであり、申請主義の否定は権利を否定することだ。


私たち福祉に関わる者がやるべきことは、いかにして国民が適切に権利行使できるようにするかを考えることだ。


そう考えると、前述した論者はまさに反面教師ということになろう。

つまり、ここがスタートラインなのだ。


行政はただ義務を果たそうとするだけ


周知を義務的に行う行政は、自己改善能力は低い。

一方で、私たちは行政に対して無関心で、自らの権利行使すら否定しようとしている。


行政にとっては、プッシュ型配信の仕組みで義務が果たされるなら、喜んでやるだろう。


彼らのビヘイビアはまさにそこにあるからだ。


ポイントは、行政がいかにユーザー目線を持つかにかかっている


問題は、行政がいかにユーザー目線(利用者目線)で情報を発信するようになるかである。


行政の記事は、まさにマーケティングと同じと心得るべきである。

つまり、

 

  1. 認知させ
  2. 関心を持たせる
  3. 関わりを作り
  4. 参加させる


こうした一連のプロセスを行政に組み込むのだ。


行政にユーザー目線を持たせるためには


そのためにどうしたら良いか。

行政にはユーザー目線がないことを前提にすべきだ。

つまり、見えていないし、見ようとしていないのである。


したがって、行政の目となり、耳となる者が必要だ。


つまり、我々福祉に関わる者、当事者、そして一般市民、議員が、行政の広報に対して、高い関心を向けなければ、行政が変わることはない


抽象的な要望では意味がない


そして、もう一つ大事なことがある。


行政を動かすには、行政の行動に直結するように働きかけることが必要だ。


残念ながら、抽象的な要望書の類を出しているだけではだめなのだ。

繰り返し述べているように、分析的に、どこをどうすべきなのか、行政に実現可能な提案をするようにしなければ、要望書も単なる当事者の自己満足で終わってしまう。


この辺りの議論については、大変重要なことなので、また別の機会に述べたいと思う。


次回は、「行政は、本当に聞いても教えてくれないのか?」について、述べたいと思う。

DaiGoの発言は、我が国に対する宣戦布告である

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DaiGoが、生活保護受給者やホームレスの命はどうでもいいなどと発言したことに関して、一言述べたい。

 

 

すでにさまざまな人が批判している通り、私も、このような発言は決して許されないと思うし、差別発言、不適切発言というよりも、もっと悪質な、あえて言えば、優生思想に直結するような、極めて危険な思想の煽動を行なったものとして、全国民を震撼させる、いわばテロの予告のような極めて重大な犯罪に準ずる行為であると感じた。

 

したがって、本人が反省しているかどうかということも大変重要なことではあるが、むしろ、国が、あるいは国民が、このことに対して、どう毅然とした態度で立ち向かうかということの方が重要なのではないかと思う。

 

この点、支援4団体の共同声明の中で、菅総理に対して、本発言が許されないこと、生活保護は国民の権利であることを全国民に伝えることを求めているが、これは、あながち的外れではないと考える。

 

まさに、我が国のリーダーが、国家の安寧を脅かす重大事態と認識して、国民に対して、この発言が許されないこと、そして、我が国の福祉の理念を改めて認識させられるかという、まさしく政治マターの問題になっているからだ。

 

また、声明にもあった、スポンサー企業等の対応にも注目する必要がある。

毅然とした態度を社会全体で共同して取っていく上で、企業の影響力は大きい。こと、スポンサー企業であればなおさらである。

企業が我が国の一員として社会的責任を果たす意味からも、明確に、こうした、国民生活を脅かす発言をすることに対して、毅然とした態度を取ることが求められている。

 

そして、最も重要なのは私たち自身の態度だ。

特に、200万人以上とも言われているフォロワーがこの発言をどう受け止めるのかが、極めて重要だ。

 

本人が反省しているからとか、普段から過激な発言をしている人だからとか、本当に人を殺したわけではないとか、これまでの社会への貢献が大きいとか、さまざまな擁護論が出ていると思う。

これをもって全てを否定すべきではないと言いたい気持ちもあるだろう。

 

しかし、少なくとも、一旦は、この我が国を恐怖に陥れた発言をしたことに対して、何かしらの行動をとる、ということが求められているのではないか。

 

本人の謝罪よりも何よりも重要なことは、この発言に対する社会の態度だ。

 

社会が一致団結して毅然とした態度を取らなければ、これからも、第2第3のDaiGoが登場する可能性があるし、ほとぼりが冷めれば本人だって同様の発言をするかもしれない。

そして、何よりも恐ろしいのは、この発言に扇動された事件が本当に起こってしまうかもしれないことだ。

 

これこそが、我が国が避けなければならない、最悪のシナリオだ。

 

私たち、そして社会が、今、本気でこの発言に対して怒らなければならない。

 

私たちこそが試されているのだ。

 

そして、本人については、謝って済むことではないことは、言うまでもない。

これは、家で独り言を言ったわけではない。友人とTwitterで交わした呟きでもない。

 

公然と社会を恐怖に陥し入れる発言をしたのだ。

 

これが今犯罪にならないとしても、本人がすべきことは、まさに更正というべきであろう。

何が自分にそのような非道なことを言わせてしまったのか、とことん自分と向き合うことである。

 

ホームレスや支援者などから話を聞くなどとあったが、それは本質的な解決策にはならない。

少なくとも、今やるべきことではない。

 

やるべきことは、自分自身の更正であり、自分と向き合い、なぜあんな非道なことが言えたのか、言ったのかをとことんまで突き詰めることだ。

 

それができて初めて、ホームレスや支援者と話をすることができるレベルに達するのであって、今は彼らと話をする資格もないし、そのレベルに達していないと自覚するべきだ。

 

この問題は、我が国へのいわば宣戦布告として、全国民の問題と考えるべきレベルであることを指摘しておきたい。

 

#3 申請主義の課題を解決するための処方箋 その3〜本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることは許されない〜

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本稿では、申請主義について極めて厳格な議論が必要になることをご説明したい。

 

本稿の始まり

 

本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まっている。

 

 

その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。

 

 

本人とその周辺環境は千差万別

 

前回(第2回)の終わりに、権利侵害(すなわち意思決定における支障)の態様を分類・整理する前提として、当事者や社会課題に応じて検討すべきであることを述べた。

 

 

福祉においては、本人とその周辺環境は千差万別である。

したがって、本人とその周辺環境に関わる以上、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士は、福祉を一律に捉えるのではなく、その個別性に着目すべきであると申し上げた。

 

本稿では、権利侵害の態様を分類する上で、私が重要な要因と考えている「帰責性」について考えていきたい。

(帰責性という用語は、法的責任主体としての帰責性ではなく、福祉の介入の対象とすべかかどうかという視点で用いている。詳しくは後述する。)

 

申請主義という言葉の定義を考える

 

具体的な検討に入る前に、まず、申請主義という言葉の定義について、今一度考えたい。

 

なぜなら、議論とは、対面であっても書面(web上の議論を含む)であっても、「言葉」の世界である。

したがって、議論の前提として、言葉の持つ「曖昧さ」をできる限り排除することが重要だと思うからである。

 

さて、「申請主義」の定義については、別記事に書かせていただいた。

以下、結論部分だけ抜粋させていただく。

 

 

「申請主義」とは「意思表示によって権利行使することを原則とする」という意味である。

 

すなわち、我が国においては、福祉を利用しようと思ったら、申請意思を示せば良いということになる。

 

これが原則であるということを、まずご承知いただきたい。

(え?実際と違うと思った方もいるかもしれないが、ここでは「定義」を問題にしており、運用・解釈の問題とは異なることをご承知いただきたい。)

 

申請主義の例外は急迫した状況の場合

 

原則というからには、例外がある。

すなわち、本人の申請意思に任せることができない場合である。

 

生活保護を例にあげれば、急迫した状況の場合は職権による保護ができることなっている。

すなわち、そのまま放置すると生命に危険が生じる恐れのある状態と認められれば、本人の申請意思によらず、行政が保護を開始する場合があるということだ。

 

本稿の議論の目的

 

本稿の議論の目的は、

1)ここでいう急迫した状況にはないが、

2)本人が申請意思を示すことが期待できない場合

極めて慎重に整理することにある。

 

なぜか。

 

福祉の本質は個人の尊厳である。

そして、個人の尊厳の本質は自己決定である。

 

したがって、本人の申請意思に関する議論は、自己決定に関する議論であり、個人の尊厳に関する議論であることから、極めて慎重に行われなければならない。

 

これが、申請意思を示すことができない場合を極めて慎重に整理しなければならない理由である。

 

申請主義を厳格な検討なく軽々しく否定批判することは間違い

 

この点、申請主義を厳格に検討することなく、表層的な問題だけを捉えて、軽々しく、申請主義を否定、あるいは批判する論者がいる。

こうした論者は、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士としては、完全に間違った考えであることを指摘しておきたい。

 

帰責性の意味

 

さて、ここからが本題である。

 

「帰責性」と述べたが、ここでいう帰責性とは、前述したとおり、法的責任に関するものではない。

すなわち、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうか、という意味で用いている。

 

帰責性を論じる前提としての分析的視点

 

本稿では、帰責性について述べる前提として、まず、申請主義における、分析的視点についてご説明したい。

なぜなら、前述したように、申請意思に関する議論は極めて慎重に行う必要があるからだ。

 

この点、なぜ慎重に行う必要があるのか理解できないという人もいるかもしれない。

そこで、以下、具体的に説明させていただく。

 

看過できない議論

 

さて、申請主義の議論において、看過できない議論がある、

それは、声を上げることができない人に関するものである。

 

具体的にはこうだ。

 

声を上げることのできない人がいる。

助けてと言えない人がいる。

だから助けてあげなければならない。

手を差し伸べてあげなければならない。

 

これを読んでどう感じるだろうか。

一般論として、これを否定する人はいないだろう。

 

しかし、福祉の視点としては、これは間違っている。

重大な視点が欠落しているのだ。

 

重要な視点は本人の能力と周辺環境

 

それは、本人の能力と周辺環境である。

 

福祉に関わる者であれば、これらを捨象して、本人を助ける、手を差し伸べるなどと決して言ってはいけない

 

それは、あなたの単なるエゴだ。自己満足だ。押し付けだ。

そう言われても仕方のないようなレベルだ。

 

これは、福祉の本質が自己決定であることを無視しているからだ。

 

知るべき情報のレベル

 

こうした論者が知るべきことは、以下のようなものだったはずた。

すなわち、

 

  1. 本人は、情報にアクセスすることができなかったのか、
  2. 情報にアクセスできても、理解できなかったのか、
  3. 理解できたとしても、書き方が分からなかったのか、
  4. 書き方が分かったとしても、書けなかったのか、
  5. 書けたとしても、提出できなかったのか、
  6. 提出できたとしても、必要な書類が添付できなかったのか、
  7. 決定があったとしても、請求ができなかったのか(決定後に請求が必要な場合もある)、

 

細かすぎると思うだろうか?

そう思うなら、あなたは間違っている。

と言われても仕方がないかもしれない。

 

申請主義の議論は極めて分析的な検討が必要

 

申請主義を議論するためには、こうしたことを極めて分析的に検討することが必要だ。

 

なぜか?

 

申請主義は、本人の権利行使そのものである。

 

私たちが関わろうとしていることは、本人の権利に関することだ。

したがって、可哀想だからと勝手に決めつけて、手を差し伸べることは、本人の権利の侵害になる

このことを、まず理解すべきだ。

 

先ほどの一般的には肯定されるだろうと述べたのはこのためだ。

 

福祉に関わる以上、本人の能力を一方的に否定して、パターナリスティックに関わることが許されないことは理解できるはずだ。

 

それが許されるのは、急迫した状況が差し迫っている時だけだ。

 

本人の権利行使がどこで阻害されているかを知る

 

だからこそ、我々福祉に関わる者は、本人の権利行使がどこで阻害されているのかを分析的に検討しなければならないのだ。

 

先ほどの例であれば、本人は、情報アクセスに課題があるのかもしれない。

 

前回の記事の例で述べた、ひとり親の事例がそうだ。 

 

本人にいくら能力があっても、そもそも情報にアクセスすることができないのであれば、福祉にたどり着くことがまだできない。

 

申請主義の課題として挙げられる、情報の周知やアクセスの問題は、こうした分析的な検討によって初めて明らかになることだ。

 

分析的な視点への批判がそもそも間違い

 

こんなことは分析的な検討などしなくても明らかだという論者もいるかもしれない。

しかし、その姿勢そのものが間違っている。

 

繰り返しになるが、申請主義は本人の権利そのものだ。

そこに手を差し伸べようとすることは、極めて限定的であるべきだ。

 

詭弁だ、と言う人がいるかもしれない。

困っている人を見捨てるのか、と言う人がいるかもしれない。

 

しかし、これは詭弁でもないし、見捨てようなどとはこれっぽっちも思っていない。

 

そして、これを一般の方が言うのであれば、私も理解できる。

しかし、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士がそれを言うことは、私は許さない。

 

次回は帰責性の本質を論じる

 

以上、本項では、申請主義の課題を検討する上で重要な帰責性を議論する前提となる、分析的や視点についてご説明させていただいた。

 

次回はいよいよ、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうかを考える上で重要となる、帰責性の本質について検討したい。

 

#4 申請主義の課題を解決するための処方箋 その4〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その1〜 - さくらのソーシャルワーク日記