申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か? その4
本稿は、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて検討しているものです。
第1回では、申請主義の権利性を確固とするため、私たち福祉関係者が取り組む必要のある、解決すべき課題を3点を挙げさせていただきました。
すなわち、
- 行政からの情報提供の不十分性
- 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
- 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
の3点です。
本稿では、3点目の「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」について、前回から引き続きご説明していきます。
前回記事
以下、本稿の構成です。
申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
権利性の収奪との関連が生じる事例
前回の最後にお伝えしたとおり、次の事例においては、権利性の収奪との関連が生じるものと思います。すなわち
- 行政が必要な情報提供をしなかったことで、結果的に申請を諦めた事例
- 申請の時効や不遡及を定めている事例
本稿では、これらの事例がどのように関連し、そして、どのような問題を生じているのか考えていきたいと思います。
問題の概要
まず、どのような関連があり、どのような問題を生じているのか、その概要についてご説明したいと思います。
関連については、端的に言えば、
- 裁判によって最終的に救済されるかどうか、
という関連があります。
そして、問題なのは、
- 行政に情報周知の義務があるのかどうかによって、救済されるかどうかに影響する、
- 時効や不遡及を定めている場合、申請しなかった(できなかった)ことによって逸失利益が生じる
という点が問題として挙げられます。
まず、前回ご説明した内容を簡単に振り返ってみます。
前回の振り返り(権利性の本質は行政処分と関連している)
申請主義における権利性の本質とは、行政処分との関係が大きいことをご説明しました。
すなわち、申請が受理されると、行政機関の審査が行われます。この審査結果に不服がある場合、行政処分の対象であれば、不服申し立てをすることができる、ということです。
つまり、不服申し立てによって、権利救済の道が開かれているということが言えます。
ここが、申請主義の権利性において、大変重要なポイントということです。
しかし、何かしらの理由、状況によって、申請を諦めてしまうことで、行政処分の機会を逃してしまいます。
つまり、権利性が奪われてしまうということです。
行政処分の機会を逃す理由や状況
何かしらの理由、状況とは、
- そもそも行政からの情報提供がなかったか不十分だった
- 行政が誤った情報提供をした
- 行政が申請を諦めるような教示を行った
- 本人が制度を利用することを「恥ずかしい」「嫌だ」と感じてしまい、申請に至らなかった(よく「スティグマ」と呼ばれているのは、このことです)
などが考えられます
情報周知が不十分というのは、本稿における1点目の課題としてすでにご説明しましたが、
- 制度そのものを知らない、
- 制度を知っていても自分が対象か分からない、
- 手続きが分からない
などを言います。
今回問題にしているのは、行政に関することなので、
- 1の情報提供が不十分、
- 2の誤った情報提供、
- 3の申請を諦めるような教示
の3点と関連しています。
いずれにも共通することは、
- 申請前の問題であること
であることです。
したがって、どの時点で申請を諦めたとしても、結果とした申請を諦めることで、権利性の収奪の問題が生じるのです。
解決の方向性
この問題の解決の方向性を整理すると、
- 権利性の収奪が起きないようにすること
- 万が一起きてしまっても、事後的に救済されるようにすること
の2点に分かれます。
本連載の1回目で、行政に情報提供の義務付けをするべきか検討した1番の論点は、
- 権利性の収奪が起きないようにする
ためでした。
つまり、事が起きる前段階で対処しようということです。
その解決策の一例として挙げたのが、行政に対する情報提供の義務付けです。
しかし、これには問題がありました。
義務付けするにしても、行政の情報周知義務が確実に履行されなければ意味がないからです。
むしろ、下手な基準を定めてしまっては、今よりも改悪されてしまう可能性もあります。
したがって、
- どのような方法で、
- どの程度の頻度等で
- 行政の周知が行われるべきか慎重に検討すべき、
というのが1点の課題に対する問題意識だったわけです。
権利性の収奪が起きないようにするための二段階の周知方法
一般的な周知方法
権利性の収奪が起きないようにするためには、行政の一般的な周知方法(政府広報や自治体の広報、ホームページなど)により、制度や対象者、手続きに関する一般的な認知度をできる限り高めておく必要があります。
これが第一段階の周知です。
個別の周知方法
さらに、申請窓口に来た人(電話やメール、ファックスなども含む)に対する、個別の相談段階があります。
これは、いわば「個別周知」の機会であり、まさしく、個別に、その人の求めている制度や条件、手続きなどについて伝えることが求められます。
これが第ニ段階の周知です。
周知方法それぞれに課題がある
どちらも重要ですが、前述した問題の解決の方向性の2点目、すなわち、
- 権利性の収奪が万が一起きてしまっても、事後的に救済されるようにすること
に関連して、二段階ある周知方法それぞれについて課題が生じてきます。
このことを念頭に置いた上で、
- 万が一、権利性の収奪が起きてしまっても、事後的に救済する
という課題について考えてみたいと思います。
続きは、次回に回します
次回記事
申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か? その3
本稿は、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて検討しているものです。
第1回では、申請主義の権利性を確固とするため、私たち福祉関係者が取り組む必要のある、解決すべき課題を3点を挙げさせていただきました。
すなわち、
- 行政からの情報提供の不十分性
- 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
- 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
の3点です。
本稿では、3点目の「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」からご説明していきます。
以下、本稿の構成です。
申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
申請を諦めることの問題の深刻さ
ここまでにご説明した、申請主義における問題点は、ある意味で分かりやすいもののように思います。
つまり、
- 制度に関する情報の周知がなされないこと、
- 申請しない(あるいは、できない)ことによって、本来要件を満たしているにも関わらず放置される結果となってしまうこと、
の2点です。
これらは、申請主義における課題として、理解しやすいと思います。
今回ご説明したい、3点目の問題「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」は、やや分かりにくい、という点で、最も深刻な問題かもしれません。
具体的に説明します。
権利性の本質に関わる行政処分
申請主義における、権利性の本質に関わるものとして、「行政処分」が挙げられます。
申請とは、法令等に基づき行われるものであり、国民(あるいは住民等)の権利の行使として行われるものです。
一方、行政処分とは、申請のあったものについて、行政が行った審査の結果として、可否を示すものです。
そして、この審査結果に対しては、権利の救済のための手続き、すなわち、行政訴訟制度の対象となる点が大変重要です。
不服申立ての対象になることが、重要な意味を持つ
行政訴訟制度、すなわち、行政事件訴訟と行政不服申立ては、我が国における、権利救済の制度です。
したがって、申請主義における権利性とは、
- 申請が受理され、
- 行政が審査を行い、
- その結果について不服がある場合、
- 救済の対象になる
ということです。
※ただし、補助金の交付を求めるものについては行政処分には当たらず、いわゆる教示の対象になっていない場合があるので、注意が必要です。
この点で、申請主義においては、申請が受理されるということが、大変重要な意義を持つということになります。
大変残念なことに、申請主義に関する議論の中で、その法的な意義についてまで述べられているものは多くはありません。
おそらく、支援の現場にあって、法的意義以前の問題として、すなわち、本稿で述べている、
- 1点目の課題「行政からの情報提供の不十分性」、あるいは、
- 2点目の課題「未申請(申請しない・できない)による漏救の放置」
の問題として、申請主義の課題を捉えている論者が多いからだと思います。
しかしながら、申請主義の権利性の最たるものは、この権利救済の道が開かれている点です。
このことについては、申請主義を論じる前提として必ず確認しておくべきことと思います。
申請を諦めることは単なる相談事例となる
では、申請前に申請を諦めることによって、権利性が収奪されるとはどういうことでしょうか?
生活保護の例で考えてみます。
生活保護の申請窓口では、資産や扶養親族、その他自立した生活の可否に関するさまざまや聞き取りが行われます。
こうしたやりとりの中で、申請者が、申請を諦めるということが、実際に起きています。
行政がこれを意図的に行っているのかどうかはともかく、申請者が結果的に諦めるという意味では、いわゆる水際作戦と呼ばれているものと、やっていることは同じです。
問題は、申請を諦めた場合、
- 申請に当たらず(申請受理とはならず)、
- 単なる相談事例として扱われる、
ということです。
この「単なる相談事例として扱われる」という点が極めて問題です。
単なる相談事例とすることで権利を奪う
単なる相談事例とはどういうことでしょうか?
前述した行政処分は、あくまでも申請受理したものだけが対象になります。
この事例のように、相談事例として処理されてしまった場合、申請受理とはならず、つまり、行政処分には至らないということです。
すなわち、申請主義が本来持っているはずの、権利救済の道が閉ざされてしまうことを意味しています。
言い換えると、申請主義においては、申請を諦めるさせることによって、その本来の権利性を奪うことができるということです。
これはとても恐ろしいことです。
もっと恐ろしいのは、誰も悪意がないこと
もっと恐ろしいのは、そのことに誰も気づいていない可能性があるということです。(確信犯だとしたら、極めて悪質と言わざるを得ないでしょう)
本人はもちろん、市役所の生活保護の窓口の担当者も、「権利を剥奪された(剥奪した)」という思いを持たないかもしれません。
そのくらい、さりげなく権利を奪ってしまう、そこに大きな問題があります。
さらなる問題
この問題に関連して、さらなる問題があります。すなわち、
- 行政が必要な情報提供をしなかったことで、結果的に申請を諦めた事例
- 申請の時効や不遡及を定めている事例
において、権利の収奪との関連が生じるということです。
この点については、次回に回します。
(参考文献)
高藤昭「社会保障給付の非遡及主義立法と広報義務 永井訴訟京都地裁判決(本誌751号238頁)の検討をとおして」判例タイムズ766号39頁以下(1991)
赤石壽美「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」(2003)
申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か? その2
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
本稿は、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて検討しているものです。
前回は、申請主義の権利性を確固とするため、我々福祉関係者が取り組むべき、解決すべき課題を3点を挙げさせていただきました。
すなわち、
- 行政からの情報提供の不十分性
- 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
- 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
本稿では、2点目の「未申請(申請しない・できない)による漏救の放置」からご説明していきます。
以下、本稿の構成です。
未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
申請主義は「申請の放棄を是認する制度」
申請主義の導入は、権利性を認める一方で、次のような課題があります。すなわち、
- 申請する意思があるにもかかわらず、
- 申請しない、あるいは、できないことによって、
- その権利性を放棄したものとみなされてしまう
ということです。
問題なのは、放棄したことによって救済される可能性がなくなってしまうことです。
生活保護の事例で考えてみます。
すなわち、
- たとえ本人が要保護の要件を満たしていたとしても、
- ひとたび本人が権利性を放棄したとされれば、
- 国が急迫した状況になるまでは、職権で保護してくれる可能性はない
ということを意味します。
以上から言えることは、申請主義とは、「申請の放棄を是認する制度」ということです。
どの程度の権利性の放棄が生じているかは推測するしかない
前回述べたとおり、生活保護制度にかかる過去の経緯からすれば、行政が経費削減という意図を実現するために、積極的に申請を放棄させているのではないかという懸念が生じます。
申請主義によって、半ばやむなく生じた権利性の放棄を是認し、結果、漏救が放置されるということになれば、このような懸念が生じても、なんら不思議ではありません。
では、どのくらい、権利の放棄(申請しない・できない)ということが生じているのでしょうか。
この点について、明確なデータはないはずです。
そもそも、社会保障制度において、一定の要件を満たした国民が何人いるのか、それの数を推定することができても、個人まで特定することは困難だからです。
この点、自治体レベルでは、税情報やマイナンバー制度、住民基本台帳などを活用すればある程度特定可能かもしれません。
候補者レベルでピックアップするためには、複数の要件が複雑に合致している必要があります。
具体的に言えば、世帯や親子関係、夫婦関係、要扶養関係、さらには障害の程度、要介護度、子育てに関する情報、就労の状況など、さまざまな情報が必要になります。
したがいまして、行政が最終的に行う審査レベルで対象者を特定することは、こうした条件が網羅的に集約されることが条件になるということになります。
したがって、現状の仕組みの中では、困難だと言わざるをえません。
マンナンバー制度により対象者を特定できるのか
では、マイナンバー制度の活用により、個人情報を網羅的に集約することで、対象者を個別に特定することはできるのでしょうか。
私は、今後、マイナンバー制度がいかに普及・定着しても、困難だと考えています。
なぜなら、あらゆる情報の集約化は、国民のプライバシー権を損なう可能性があるからです。
すなわち、情報セキュリティを大前提に、国民のプライバシー権を保障する一方で、社会保障の実現のために、情報を集約させてプライバシー権を骨抜きにしてしまう危険性があるということです。
しかしながら、社会保障制度の要件に該当する人のデータを、プライバシー権との兼ね合いの中で、いかに集約していくかということは、今後、重要な論点になることは間違いないでしょう。
少なくとも、現在利用可能な情報から、可能な範囲で特定するということは、行政に限らず、我々福祉関係者にとっても極めて重要な論点です。
ただし、この議論は、今回挙げさせていただいている申請主義の課題とは別の議論と考えており、別な機会に論じたいと思います。
情報集約化の意義
情報集約化の意義について、一点だけ指摘するならば、情報集約化による候補者の特定は、2つの意味を持つと考えます。
1つ目は、
- DX自体においては、利用者の利便性の向上につながるものとして、行政手続きのオンライン化の議論の潮流で検討されるべきものであろう
ということ。
ここには、今時の利便性という観点であり、行政サービスの向上という趣が大きいと考えています。
むしろ、我々福祉関係者にとって重要なことは、2つ目の意味です。
すなわち、
- すでに問題化してしまっている状況を、情報を集約化することで、早期に発見し、支援に繋げていくいく
という意味です。
早期発見のために情報のデジタル化などが活用されるべき
この早期発見のために、情報のデジタル化、検索、AIなどの技術を活用することは、現代において当然の流れであると思います。
これにより、今までであれば発見できなかったケースの早期発見につながる可能性が出てくると考えます。
利便性の向上とプライバシー権の保障を切り分けて考えるべき
ただ、繰り返しになりますが、プライバシー権との関係は、我々福祉関係者にとっても、極めて重い問題です。
これが骨抜きにされてしまっては元も子もないからです。
したがって、重要なことは、プライバシー権を守りつつ、福祉関係者などの専門家が倫理性を維持しつつ、一定の権限の下に連携して情報にアクセス可能な仕組みを作ることだと考えます。
こと虐待の現場対応では、何よりも人命が最優先されます。
早期の発見、早期の支援は我々福祉関係者の至上命題です。
ただし、このことと矛盾するようですが、個人の尊厳、自己決定、プライバシー権の保護は、我々福祉関係者が守るべき絶対的価値観であることは忘れてはいけません。
この問題については、建設的に、前向きに、かつ迅速に取り組むべきです。
しかしながら、前述した1つ目の意味、すなわち行政のDX、利便性の向上の議論とは確実に分けて議論すべき、ということだけは指摘しておきたいと思います。
特別定額給付金における未申請者
さて、ここまでで、社会保障制度における対象者を、完全に特定することは困難だということを述べました。
本稿の最初の方で、権利性の放棄が是認されている事例がどれほどあるのか明確なデータは無い、と述べた理由です。
しかしながら、特例定額給付金のように、所得や特別な要件のない給付金に限って言えば、住民登録上の候補者であれば特定は可能です。
特別定額給付金では、最終的に令和3年3月末時点で、給付世帯割合は99.4%と報じられており、未申請の世帯は34万世帯にのぼります。
額で言えば、給付事業費 12兆7,344億14百万円のうち、12兆6,700億を給付しています。
すなわち、給付率は99.7%ですが、額にすると644億円が未支給になっているということになります。
未申請の理由は様々でしょう。
- 1人10万円程度の端金はいらない、
- お金に困っていない、
- 人からの助けは受けたくない、
など確固たる信念に基づき、受け取りを「辞退」している人・世帯もいるかもしれません。
しかし、世帯数、額ともに、相当な数に上っています。
したがって、その中には、ここで問題にしている未申請者、すなわち、
という未申請者がいるのではないかと推測されます。
仮に、これらの未申請者が全体の1%いたと仮定すると、3,400世帯、額にして約6億が、本人の意思によらず「未申請」となっているということになるわけです。
未申請者は救済されず放置されてしまう
全国で一律実施されたものからすれば、この程度は誤差の範囲という人もいるかもしれません。
しかし、このことからは、次の2つの問題が指摘できます。すなわち、
- 未申請者は特別な立法措置がなければ救済されることはなく、理由のいかんによらず、放置されてしまう。
- 世帯(個人)を特定して、申請勧奨、すなわち申請書の個別通知を行なったにもにもかかわらず、相当程度の未申請者がいる。
ということです。
特に2)の点については深刻です。
すなわち、多くの制度では、
ということが多いでしょう。
すなわち、多くの制度で、特別定額給付金以上に未申請者がいる可能性は否めないということです。
このことから分かるように、問題は、一定数の未申請者がいても、その実態が把握できないことです。
これは、申請主義に限ったことではなく、措置であっても対象を特定しきれないという問題は生じます。
しかし、申請主義の場合、未申請が放置されることに問題があると考えています。
すなわち、本人が申請意志があったとしても、そもそも制度を知らずに申請していなかったとしても、いずれにせよ権利を放棄したものと見做されてしまうのです。
これが、申請主義に対して批判が集まることの一因であろうと思います。
医療費助成制度における未申請者
もう一つ事例を挙げて検討したいと思います。
医療費の助成の例です。
医療費の助成とは、一般的に、
- 医療保険制度における自己負担(例えば医療費の3割など)の全額、
- あるいは自己負担から一定額(助成制度における自己負担部分)を控除した額
を公費で助成するものです。
この助成方法には、
- 医療機関の窓口で一旦医療保険制度における自己負担分を支払った上で(立替払いした上で)、後日、市役所などの窓口で申請することによって還付が受けられる「償還払い」方式と、
- 医療機関での窓口での立替払い(あるいは助成制度における自己負担部分のみを支払う)「現物給付」方式
があります。
この点、医療費の助成を現物給付で受ける場合と償還払いで受ける場合との差異を比較することで、申請主義による未申請による漏救について明確になると考えます。
医療費助成制度にはさまざまなものがあります。
具体的には、子ども医療のほか、特定疾患(難病)患者の助成金、障害者のための更生医療、精神疾患患者の通院医療費の助成など、年齢や疾患、障害などの区分に応じて、さまざまな制度があります。
また、実施主体も、国の制度であったり、県や市が上乗せ、あるいは独自に助成しているものなど、さまざまです。
問題になるのは償還払いのケース
前述したとおり、助成方法には、現物給付、あるいは償還払いの、大きく2通りの方法があります。
問題になるのは、償還払いの場合です。
償還払いの場合、申請主義がために、利用者がもらい損ねるという事態が生じうるからです。
具体的には、大きく、以下の4通りの問題があります。
- そもそも還付を受けられることを知らない(知らされなかった)場合
- 知っていても、期限(助成申請の期間が2年などと定められているため)までに、申請をし忘れてしまった場合
- あるいは、申請が面倒と感じ放置してしまう場合
- 申請に行ったものの、必要な書類(保険証や口座番号の分かる書類など)が整っていないということで申請が受理されない場合
1)から4)の全てについて言えることば、本人が積極的に権利を放棄したわけではないことです。
これらの事例をもって、権利の放棄と見るべきかについては異論を挟む余地は無いだろうと思います。
なぜならば、現物給付であれば、払う必要のなかったお金が、申請が必要なために、もらえなかったということだからです。
時効や不遡及による問題の複雑化
以上、申請主義の課題として挙げさせていただいた2点目、未申請が放置されるということについての問題について説明してきました。
この問題は、申請に時効がある(事実発生から2年以内など)、あるいは申請前の未申請部分について遡及(遡って給付対象とすること)を認めないとしている制度の場合、さらに問題が深刻になります。
この点については、1点目の課題で指摘した点、すなわち、行政に情報周知を義務付けることと同様ですが、3点目の課題である「申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪」において、改めて検討したいと思います。
以降は、次回に回します。
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
(参考文献)
高藤昭「社会保障給付の非遡及主義立法と広報義務 永井訴訟京都地裁判決(本誌751号238頁)の検討をとおして」判例タイムズ766号39頁以下(1991)
赤石壽美「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」(2003)
時事通信「10万円給付率、99.4% 34万世帯が未申請―総務省最終まとめ」
https://www.jiji.com/sp/article?k=2021043001056&g=eco
(2021.10.01)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000715720.pdf
(2021.10.01)
申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
申請主義は、行政の財政負担を軽減しているという指摘があります。
これは本当でしょうか?
本稿では、申請主義が行政の財政負担を軽減しているというのは本当か?ということについて考えたいと思います。
以下、本稿の構成です。
少し長くなるため、分割して掲載したいと思います。
目次
- 国による経費削減政策
- 経費削減のため国による積極的手立てがなかった
- 経費削減は措置の時代からあった考え
- 申請主義の国民の権利としての意義
- 申請主義の権利性を確固とするための課題
- 行政からの情報提供の不十分性
国による経費削減政策
まず、これまでの経緯について考えてみたいと思います。
確かに、これまでの我が国の救貧対策においては、経費節減のため、
- 国民への制度の流布の制約や、
- 対象の厳格化
を図ってきたという経緯があります。
このことについては、赤石(2003)の「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」で詳しく論じられています。
赤石の指摘は、大変示唆に富んでおり、別の機会に詳しく検討したいと思いますが、大変重要と思われる指摘があるので、ここでは、その一点だけ取り上げさせていただきます。
経費削減のため国による積極的手立てがなかった
すなわち、「保護の運用上、漏救に対する積極的手立ては一貫して講じられることがな」かったと指摘している点です。
取り上げられているのは生活保護の事例です。
戦後の生活保護法において、申請保護の原則が定められました。
これは、申請主義を導入し、生活保護の権利性を明確にしたということを意味しています。
問題なのは、権利性を明確にしたにもかかわらず、国は積極的な利用を抑制しようとした、ということです。
国としてアクセルとブレーキを同時に踏むようなことをした目的は何でしょうか?
それが経費節減です。
理由は明確です。
納税者が減って、保護受給者ばかり増えれば、国が財政面で立ち行かなくなると考えたからです。
経費削減は措置の時代からあった考え
しかし、この経費削減という考え方自体は、措置の時代からあったものであるということに注意が必要です。
すなわち、申請主義の導入と同時に、国が経費削減に奔走し始めたということではないということです。
措置であっても、申請主義であっても、国の経費節減という考え方は変わりません。
したがって、明石のいう「漏救」は、申請主義に始まったものではない点を改めて確認しておきたいと思います。
申請主義の国民の権利としての意義
むしろ、申請主義の導入によって、国民の権利としての社会保障の地位は揺るぎないものとなった点に注目すべきです。
この意味において、我々福祉に関わる者としては、申請主義の導入を歓迎すべきだからです。
しかし、申請主義ならではの課題も登場したことも事実です。
福祉関係者としては、申請主義を歓迎しつつ、申請主義が真に国民のためになるように課題の解決に尽力すべきだというのが、正しい考え方ではないかと思います。
仮に、国が経費削減のために、意図的に制度を骨抜きにしようとしているのであれば尚更です。
申請主義の権利性を確固とするための課題
以上を踏まえて、我々福祉関係者が取り組むべき、解決すべき課題について検討します。
具体的には、以下の3点を挙げさせていただきます。
すなわち、
- 行政からの情報提供の不十分性
- 未申請(申請しない・できない)による漏救の放置
- 申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪
です。
順にご説明させていただきます。
行政からの情報提供の不十分性
行政からの情報提供と申請主義はセットと考えることが妥当
行政からの情報提供については、高藤(1991)の指摘が非常に分かりやすいので、ここで引用します。
すなわち、「一般の住民はせっかく自己に対する給付立法がなされても, それを知らなかったために失権してしまうことが多い。
政府当局による十分な広報活動を伴わないとき, いかに優れた社会保障給付制度も画餅に帰する」との指摘です。
この指摘からも言えることは、行政からの情報提供と申請主義はセットと考えることが妥当だということです。
つまり、行政からの情報提供が十分になされないと、申請主義を導入したことによる権利性の発揮が損なわれるということです。
申請主義と行政からの情報提供を一旦切り離して考えるべき
この申請主義の権利性が阻害されるという問題は、前述した赤石の指摘からも明らかなように、国の、
- 積極的な利用を抑制しよう、
- 意図的に情報を抑制しよう
という意図が見え隠れすることで、さらに複雑化しています。
私としては、この問題はもっとシンプルに考えるべきと思っています。
すなわち、申請主義と行政からの情報提供を一旦切り離して考えるべきということです。
粘り強く国に対して要望していくことが重要
これは敢えて述べますが、行政が意図的に情報を抑制して、申請主義の導入による権利性の発揮を骨抜きにしようとしているとの考えについては、ミスリードになる可能性があり、注意が必要と考えています。
そのような意図が仮に行政にあったとしても、現代において、国が積極的に情報の抑制に努めているという明確な根拠はありません。(明確な「指示文書」のようなものが出てくれば別ですが。)
積極性に欠けるという意見もあると思いますが、それを言ってしまうと、「ではどこまで情報提供すべきか」という問題になってしまいます。
この議論は、基準があいまいなままでは抽象的な議論に終始してしまう可能性があることが懸念されます。
したがって、この点について、私は、
- 国の広報の状況を見守りつつ、
- 地道に、粘り強く国に対して要望していくこと
が重要だと考えています。
国や行政機関などに対する義務付けは慎重に検討すべき
また、国や行政機関に対し、情報周知の義務付けをしていくという考え方もあります。
国に積極的な周知を求めていくという意味での義務付けであれば異論はありません。
しかし、この点についても、慎重な検討が必要とも思います。
理由は、
- 基準次第では、国の周知義務が骨抜きになってしまう可能性があるから
です。
具体的に説明します。
周知の義務について法律に明記されたとしても、その方法や頻度についてまで法律に定められることは考えにくいです。
その場合、大臣告示(厚生労働大臣の定める基準)など下位の法規範で定められることになります。
そうなると、国にとって都合の良い基準を定められてしまう可能性が懸念されます。
すなわち、
- 現在よりも周知の方法や頻度が改悪されたとしても、
- 法律上は義務を果たしているものとされてしまう可能性がある
ということです。
また、地方公共団体については、その方法や基準を条例等で定めることになります。
地方において、十分に議論が尽くされれば良いのですが、国と同様に、現在よりも方法や頻度において改悪されてしまう可能性も否定できません。
したがって、義務付けの大前提として、
- 周知の方法や頻度がなどの具体的な基準に関する議論が深まり、
- 基本的な方向性を法律レベルで書き込むことができること
が、マストであることを指摘したいと思います。
これが、最初に「慎重な検討が必要」と述べた理由です。
なお、行政の情報提供を義務付けすべきとの論点については、3点目の課題(申請前に申請を諦めることによる権利性の収奪)で、改めて触れたいと思います。
通知主義への転換という頓珍漢な議論
さらに関連して述べれば、「申請主義から通知主義に転換すべき」との意見もありますが、これもまた頓珍漢な話だと考えています。
「通知主義」という言葉の意味は論者によってさまざまだと思いますが、申請主義との対比で一般的に述べられているのは、行政から積極的に情報発信すべきということだと思います。
しかし、これまでの説明からも明らかなように、そのような意味での「通知主義」は、まさしく申請主義を補完するものです。
すなわち、申請主義と論者のいう通知主義は「択一的な関係ではない」ということです。
にもかかわらず、「申請主義から通知主義に転換すべき」のように択一的な関係で捉えようとするから、「頓珍漢」だと感じるわけです。
○まとめ
以上を踏まえた私の意見としては、
- 申請主義を一旦肯定した上で、
- その課題として行政からの情報提供の程度や在り方を考えるべき
ということになります。
結論においては非常にシンプルな内容ですが、これを「そりゃそうだよね」と感じていただければ本稿の目的は一つ果たせたかなと思います。
論点の2点目以降については、次回に回します。
次回
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
(参考文献)
高藤昭「社会保障給付の非遡及主義立法と広報義務 永井訴訟京都地裁判決(本誌751号238頁)の検討をとおして」判例タイムズ766号39頁以下(1991)
赤石壽美「生存権保障下における「漏救」の法的系譜」(2003)
#7 申請主義の課題を解決するための処方箋 7〜権利侵害の態様とは その1〜
本稿は、申請主義の課題を解決するための処方箋について述べているものである。
今回が第7回となる。
以下、前回までを振り返りながら、話を続けていきたい。
前回までの振り返り
前回までを簡単に振り返りたい。
経緯
本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まる。
その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。
申請主義を検討する上で重要な3つの要素
前回まで、申請主義を検討する上で重要なファクターとなる3つの要素について検討してきた。
すなわち、登場人物、プロセス、能力の3つである。
能力については、さらに、3つの要素に分けて検討した。
すなわち、事実ベース、具体ベース、そして前回ご説明した実現可能性である。
ここまでが、前回までの振り返りである。
申請主義に関わるファクターの緻密な分析の必要性とは
これらの検討は、申請主義に関わるファクターを緻密に分析してきたということである。
では、なぜこのような分析が必要だったのか?
それは、申請上の課題、すなわち本稿でいう「権利侵害」の態様を分類するためである。
より具体的には、権利侵害の態様を分類する上で、重要な要因となる「帰責性」の本質を検討するためである。
言い換えれば、権利侵害の態様を分類するというのは、すなわち、申請上の課題がどのような力学で生じているのか、それを分類整理するということに、ほかならない。
次回
今回は、少し分かりにくかったかもしれない。
次回は、具体例を挙げてご説明したい。
#6 申請主義の課題を解決するための処方箋 その6〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その3〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
目次
前回までの振り返り
前回までを簡単に振り返りたい。
経緯
本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まる。
その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。
今回は、前回に引き続き、権利侵害(申請上の課題)の態様を分類する上で、重要な要因となる「帰責性」を検討するためのキーファクターについて考えていきたい。
実現可能性
前回ご説明したとおり、申請主義を検討する上で重要となる3つ目のファクター、すなわち「能力」とは、事実ベース、具体ベースの実現可能性のことであった。
前回は、この「能力」の構成要素のうち、事実ベース、具体ベースというところまでご説明した。
今回は、能力の3つ目の構成要素である「実現可能性」についてご説明したい。
実現可能性は、最終的な効果の帰属の問題
「能力」を考える上で、実現可能性の問題についての検討は大変重要である。
なぜなら、これは「最終的な効果の帰属が、どのような力によって実現されるか」という問題だからである。
これだけでは何のことか分かりにくいと思う。
以下、具体的に見ていきたい。
帰属の実現主体は本人とは限らない
端的に言えば、「能力」は本人の力だけに頼る必要はないということだ。
そもそも、あらゆることを本人に求めるのは酷である。
言い換えれば、本人に能力があるのかどうか(すなわち、事実ベース、具体ベースでの実現可能性があるのか)の判断は、周辺状況も加味して考える必要があるということである。
事例(本人に重度の知的障害があるケース)
例えば、本人に重度の知的障害があるケースだ。
こうしたケースであっても、同居する家族が、本人に代わって一定の代理(的)行為を行うことができる場合もある。
この代理(的)行為による効果の帰属先は本人自身である。
すなわち、本人自身が自己決定することが難しい場合であっても、家族が本人の能力を補完することによって、本人の権利行使が阻害されることはないというケースである。
この場合の本人の能力の判断においては、実現可能性がある、ということになる。
この点が、非常に重要だ。
留意点
ただし、このケースについての留意点がある。
それは、本人の能力を補完する家族についても「能力」(前回ご説明したとおり、事実ベース、具体ベースの実現可能性の有無)を判断する必要があるということだ。
周辺状況を確認することなく本人に介入するのは福祉のエゴである
以上のとおり、能力を判断するに当たっては、本人以外の周辺状況を踏まえて判断しなければならないということである。
したがって、本人だけに着目して、本人に能力がないかと判断することは、大変危険なことだと言える。
ましてや、周辺状況を確認することなく、即本人の権利行使に介入するというのは、福祉に関わるもののエゴであり、本人の権利を侵害する可能性のある行為であることを指摘しておく。
周辺状況の慎重な観察が重要
重要なことは、周辺状況を慎重に観察することである。
現代社会においては、一見他者との関わりがないように見えても、何かしらの形で接点を持っていることが多い。
ソーシャルワークにおいて、本人、家族、周辺環境に関わっていくことは基本中の基本である。
この点について、ソーシャルワーカー、ましてや社会福祉士であれば、軽視することがあってはならない。
次回は帰責性の本質について検討する
ここまで、申請主義を検討する上で重要なファクターとなる3つの要素について検討してきた。
すなわち、登場人物、プロセス、能力の3つである。
能力については、さらに、3つの要素に分けて検討した。
すなわち、事実ベース、具体ベース、そして今回ご説明した実現可能性である。
これらの検討は、権利侵害(申請上の課題)の態様を分類する上で、重要な要因となる「帰責性」を検討するための前提として、申請主義に関わるファクターを緻密に分析してきたということである。
したがって、次回以降、ここまでの議論を踏まえて、いよいよ帰責性について検討していきたい。
#5 申請主義の課題を解決するための処方箋 その5〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その2〜
申請主義とは 〜正しい定義こそが本質的な課題解決のためのスタートラインだ〜 - さくらのソーシャルワーク日記
前回までの振り返り
前回までを簡単に振り返りたい。
経緯
本稿は、申請主義の否定や批判は福祉の否定や批判だと述べたところから始まる。
その意図するところは、第1回の記事をご覧いただきたい。
帰責性
本稿では、自己決定に当たって生じる支障を「権利侵害」と述べた。
そして、この権利侵害の態様を分類する上で、「帰責性」を重要な要因と説明した。
ここでいう「帰責性」とは、申請主義において、適切に権利行使することが期待できる状況にあるかどうか、という意味で用いていることにご留意いただきたい。
申請主義を検討する上で重要となるファクター
帰責性の本質を検討するには、まず、申請主義を検討する上で重要となるファクターについて整理することが重要である。
ここは議論の中核であり、非常にボリュームがあるので、前回から引き続き、数回に分けてご説明したい。
前回は申請主義を検討する上で重要となるファクターのうち、「登場人物」と「プロセス」についてご説明させていただいた。
今回は3つ目のファクターとなる「能力」についてご説明したい。
目次
- 前回までの振り返り
- 登場人物、プロセスに次ぐ第3のファクターは能力
- 能力とは、事実ベース、具体ベースの実現可能性
- 重要な具体レベルの理解
- 課題の発見・認知は簡単ではない
- 次回は、能力の3つめの構成要素「実現可能性」
登場人物、プロセスに次ぐ第3のファクターは能力
さて、申請主義を検討する上で重要となるファクターの続きである。
「登場人物」、「プロセス」ときて、もう一つ重要なファクターがある。
それは、「能力」である。
能力と言っても、頭の良さとか、何か特殊な技術のことを言っているのではない。
能力とは、事実ベース、具体ベースの実現可能性
ここで言う能力とは、
- 事実ベース、
- 具体ベースの
- 実現可能性
のことである。
先のプロセスにおける視点として、「課題の発見・認知」を挙げさせていただいた。
これを事実ベース、具体ベースで実現するためには、何ができる必要があるのか考えてみたい。
ここでは、「生活の困窮」ということを例に挙げる。
事実ベースの理解
まず、生活の困窮という「事実」を認識できる必要がある。
事実とは何か。
- 食べ物がない、
- 食べ物を買うお金がない、
- 貯金もない。
ごく単純化してしまえば、こうした事実が生活の困窮に関する事実となる。
これらに客観性はある。
しかし、問題は、具体的にイメージできるほどの具体性はないことだ。
いわば、「課題を抽象的に言語化したもの」と言える。
専門家によるカンファレンスの中では、(例えば)食べ物がない、という抽象的な表現を用いることも多いだろう。
議論を効率的な行うためには、言語の抽象化が不可欠だからである。
しかし、実際の支援の場面において、本人の状況や認知能力の確認を行う上では、この事実ベースにとどまっていては不十分だ。
そこで、次の具体ベースでの理解が必要となる。
具体ベースの理解
先の「生活の困窮」の例を具体レベルにするとどうなるか。
下は、上記の事実ベースを具体ベースに置き換えた例である。(事実ベース→具体ベース)
- 食べ物がない→冷蔵庫には何も入っていない
- 食べ物を買うお金がない→ 財布にはお金が一銭もない
- 貯金もない→通帳には貯金残高がない
具体ベースに置き換えることで、グンとイメージしやすくなることがお分かりいただけると思う。
具体ベースに置き換える意義
先の例では、「食べ物がない」という事実ベースだけでは、具体的にイメージできないことが問題であった。
これを「冷蔵庫には何も入っていない」という具体ベースにしたことで、初めて食べ物がないということが具体的にイメージできた。
つまり、具体ベースにしたことで、食べ物がないという事実認識ができた、ということが重要なポイントだ。
これは、本人(あるいはその家族)にとっても同様である。
すなわち、こうした具体レベルで認知ができるかどうかが、本人の能力(生活困窮という課題を認知することができるかどうか)の有無を判断する上で重要だということになる。
重要な具体レベルの理解
今述べたとおり、重要なことは、具体レベルだ。
これをもう少し掘り下げていきたい。
具体レベルの掘り下げ
上記の具体レベルの例では、「物理的な存在」を前提としていることがポイントだ。
すなわち、「冷蔵庫、財布、通帳」である。
具体レベルでは、これらの「物理的な存在」の「状態」を何かしらの方法で確認(認知・確認・理解)できることが前提となる。
つまり、
- これらの場所について認知できる
- これらの役割について認知できる
- これらの状態を確認できる
- その状態が意味することを理解できる
ということが前提になる。
具体的な事例を見てみよう。
具体的な事例(通帳の例)
先ほどの通帳を例にすると、
- 通帳がどこにあるか知っている
- 貯金の意味が分かる
- 残高のページを確認できる
- いくら残っているか理解できる
ということになる。
そして、これは通帳がちゃんと記帳されていることが前提だ
課題の発見・認知は簡単ではない
こうして見てみると、生活の困窮ということ一つとってみても、課題を発見し、認知するということ自体が、実はさまざまなミニプロセスを経て実現されるものだということが分かる。
すなわち、必ずしも簡単なことではないということである。
次回は、能力の3つめの構成要素「実現可能性」
前述したとおり、能力とは、事実ベース、具体ベースの実現可能性である。
今回は、能力の構成要素のうち、事実ベース、具体ベースということについてご説明した。
次回は、3つ目の構成要素である「実現可能性」についてご説明したい。
#6 申請主義の課題を解決するための処方箋 6〜申請主義を検討する上で重要となるファクターとは その3〜 - さくらのソーシャルワーク日記